14 母のない子に浜千鳥を
  ーー傷だらけの天使的お年玉スペシャル編はわびしい正月を迎える

 

 放映は年が明けた75年の1月4日のこと。土曜日だから三が日を過ぎてもまだ正月真っ最中である。スペシャルプログラムといってもいい。お正月特別豪華お年玉号とも。
 ゲストは桃井かおり。いまなら十分豪華ゲストであるけど、当時人気が少しずつでてきているとはいえ、まだまだの頃。萩原との共演作「青春の蹉跌」のあと、病気でしばらく休んでいて復帰第一作ではあったが、一般の視聴者にどれだけ浸透していたか。
 それに豪華十大付録とかいって正月になればてんこ盛りのおまけをつける雑誌のようにするなら、ゲストをずらりと並べねばならない。それどころかいつものレギュラーの顔さえない。岸田今日子の不在はあっても、岸田森に、ホーン・ユキの姿さえない。岸田森は全26回中この回だけ欠席。市川の脚本には岸田森とホーン・ユキの出番は冒頭にある。しかしドラマはそこをきれいになくして、萩原が派手な正月飾りを持ち、暮れの街を歩く、少し長めのシーンに置き換えられている。
 実際の撮影は12月に入ったか入らなかった頃で、暮れの賑わいはそこにまだないはずだ。しかしこのシーンを見ると毎年繰り返される年の瀬の街の様子が伝わってくる。萩原の持つ正月飾りは、もうほとんど見られないものだし、あの頃だって少し時代遅れであっただろう。それを無造作に肩に乗せて歩く萩原がかっこいい。
 スターは不在でも、今回は暮れの街、大晦日の夜、紅白歌合戦、除夜の鐘、雑煮、お年玉、たこ上げ、かんしゃく玉の遊び、そして獅子舞! までもでてくる。日本の年末年始の景色がずらりと並ぶ物語が語られている。
 千葉の実家に預けた健太のところに帰省することにした修は、正月をいっしょに過ごそうと酒やかまぼこを買ってきた亨を残して、ペントハウスをでる。
 しかし千葉の実家にいると思っていたのは修だけで、健太は死んだ女房の姉にいつの間にか引き取られていた。いろいろ文句もあるが、いつものようにキレることができない萩原である。身勝手なのは向こうよりも自分のほうだ。正月だからといって、日頃の無礼をなかったことに帰って来たことが恥ずかしい。
 正月の夢は怪しいものになっていく。
 つまり今回は豪華さに捨てられたものたちの話であるといっていい。
 雲行きの怪しくなった萩原は、黒いマフラーを忘れたからと水谷を呼び寄せる。健太を引き取り高級料亭「浜千鳥」をやっているという桃井の店に向かうことになる。亨は十五歳以来欠かしたことのない「紅白歌合戦」を浜千鳥で見ようとするが、テレビは壊れている。自動車の修理工だからと直す亨。
 テレビはつかず、除夜の鐘が鳴り響く。今年はいっこもいいことなかったよ、と水谷はドライバーを投げてすねる。あの頃は富めるものであれ貧しきものであれ、一年の終わりにはテレビの前で「紅白」を見て、ひとつになったのだった。亨はそんなささやかな儀式からもこぼれ落ちてしまう。
 桃井の店「浜千鳥」は最初なかなか見つからなかった。萩原たちは車で何度も明かりの消えかかる大晦日の町を走ることになる。なぜならそこは高級料亭でもなんでもない、カウンターがあるだけの小さな店だったからだ。
 桃井のかつての男は東京で美容師として成功して帰ってきたとやって来るが、じつのところはそれも嘘であることがバレる。
 みんな故郷に錦を飾ったような口ぶりでいて、じつは違う。正月の華やかさの向こうにある実像がここでも描かれている。
 かくいう萩原も、オレの本職はゆすり屋だと告げて、借金で困り果てた桃井のために一肌脱ぐことになる。
 風呂に浸かっていい気分の人気美容師面した男を、萩原は服を着たまま風呂に突入して襲いかかる。脚本では服のまま風呂に入る指定はなく、足を入れているだけだ。美容師男は服を着たまま風呂にどかどか入ってくる萩原に怯える。萩原がそう演じたいといったのだろう。
 萩原は風呂桶を片手に男を足で羽交い締めにして、男に桃井の借金のためにカネを払ってやれと迫る。男がふらふらになるばかりか、萩原ものぼせて鼻血がでるまでになっているのにつづく。
 また動きでいえば、萩原の走る姿も独特だ。ここでも千葉の実家をあとにするときに走る。手足がまっすぐでず、横に乱れているように見える。あんな走りでは遅くなるのではないかと思わないではないが、とても映像的で躍動感あふれる姿だ。「太陽にほえろ!」では新人刑事が必ず走るカットがオープニングタイトルで使われていた。萩原の走りはその後につづく新人刑事役の誰とも違う。見せてくれる。
 萩原はアクション俳優ではない。しかし何度もいうように体の動きに見せ場を宿している。彼よりもずっとキレのいい身のこなしをするものはいただろう。でも萩原のような不格好さを宿した動きは彼だけのものだ。
 桃井かおりはどてらに和服に紺のセーターで現れる。小料理屋の衣装としての和服だが、大晦日は銭湯帰りでどてら、正月は和服、そして最後はセーター。時間の経過が見て取れるばかりか、日本の正月に咲いた隠れた花のように香ってくるような佇まいだ。
 桃井と萩原はのちに「前略おふくろ様」でレギュラーとして共演し、桃井の人気はもうひとりの共演者川谷拓三とともに広く浸透していく。
 萩原と桃井は「青春の蹉跌」で家庭教師と不良娘として初共演した。勉強を教えに来た萩原の前で下着姿でいる桃井。萩原に、さあやろうかといわれて、なにを? と問い返すと、萩原はちょっと困ったように、勉強、と答えて顔をくしゃくしゃにする。萩原と桃井のやり取りは忘れがたい。「青春の蹉跌」を見たものは今回ふたりが並ぶとつい重ねて見てしまう。
 しかし病み上がりであったせいではないのだろうが、ふたりの共演はやや薄味である。これまでの「傷だらけの天使」を見た人が、桃井の名前を期待して見たときに、ヌードもなければ恋もない今回に物足りない思いを抱くかもしれない。
 けれど萩原は桃井との芝居に忘れがたいセリフを付け加えてくれる。自分の考えた悪事が萩原にバレた桃井は言葉も少なく顔も暗い。萩原は、なんとかいったらどうなんだ、とせっかちに詰めよっていく。そしてすべてがわかり自分がなんとかしようと決めたあと、笑えよ、笑えよ、あんた、笑ったほうがかわいいから、という。
 字面だけでは魅力はほとんど伝わらないかもしれない。でも、この「笑えよ」や、「悪女」で緑魔子に向かって「(昨日の夜からずっと逃げていたから)おしっこまだ一度もしてないんだろ」というセリフとともに、萩原らしいセリフのひとつだ。「笑えよ」はよそで聞いたことがあるかもしれない。けれど萩原が広めたはずだ。ここのセリフは口説き文句ではないけれど、萩原のいうセリフで女とのしゃべりかたを学んだ男は多いはずだ。テンプターズで女性向けアイドルとして登場した萩原が、この頃には男性に指示されていくのはそういった側面も多分にあっただろう。
「浜千鳥」は桃井の店の名であるだけでなく、童謡の「浜千鳥」から来ている。作曲は「春よこい」や「鯉のぼり」に「雀の学校」という大メジャーな作がある広田龍太郎。しかし「浜千鳥」はそれほど知られていない。いや、筆者の世代よりも前の人たちには愛唱されていたのだろうか。その歌詞は「親を探して鳴く鳥が」と、母を恋う子の気持ちが綴られている。
 作の市川森一は幼い頃に母を亡くしている。萩原に健太という母のない子をあて、そして健太のいる先に「浜千鳥」と名付けた心の奥に彼の気持ちがそっと込められているのだろう。
 故郷を母なるものといいかえれば、故郷に帰りたくても帰り着けない萩原はもうひとりの母を亡くしたもので、それはその頃の日本人の心情でもあったのだろう。
 健太は「皇太子」と呼ばれて結局萩原が引き取り、水谷とともに町をあとにする。今回のラストはこれまで一度もなかった遠景カットで終わる。
 正月ならば派手でにぎやかなものをと期待するのを笑うように牧歌的だ。
 放映も半分が過ぎた。低かった視聴率を受けて、てこ入れ後のドラマが始まっている。子連れ探偵による人情喜劇に路線変更といったような記事を、当時の新聞で見た記憶が筆者にある。複雑な気持ちがした。視聴率と関係なく十分面白いと思っていた筆者は子連れと子持ちは大いに意味が違い、ひょっとするとぬかみそ臭いホームドラマっぽくなるのではないかと。予想はだいたいにおいてあたる。これ以降先の好調とは別人のような顔を見せ始める。もし高視聴率だったら、ますます弾けたことになっていただろうが……。
 てこ入れは成功したのか。
 今回は他のレギュラーも不在だから、明確にはわからない。双六でいえば一回休みといった感じもしないではない。
 監督は恩地日出夫。恩地はロケ先での水谷豊の人気ぶりについて語っている。恩地はドラマ開始以前に監督して以来の登板である。そのときは萩原に野次馬は注目しても、水谷を見る人はいなかっただろう。しかしこの回のロケ地である湯河原では違っていたらしい。萩原は田舎だけのことだといって笑っていたという。しかしテンプターズで日本全国を巡った萩原自身がいちばんよく知っているはずだ、地方でそうならば、都会ではもっと凄いことになっていることを。

15 つよがり女に涙酒を
  ーーこのドラマは探偵モノであるが、なぜか探偵らしくなると途端に面白くなくなる
   
 年が明けて第二弾。ゲストは松尾和子。
「港町」でヌードスタジオのモデルをやった荒砂ゆきに、あんた松尾和子に似てるね、と萩原はいってる。
 松尾和子は萩原よりも十五歳年上。松尾はその頃40歳近く、人気は60年代初めにあった。当時の言葉でいうとムード歌謡の女王だった。レコード大賞を受賞するほどの人気を誇ったが、誰しも人気はずっとつづかない。しかしこのドラマの放映の頃、母であるのに性的な魅力を宿す熟女として大学生のあいだで受けて人気が再燃した。
 松尾を選んだのは、若者と大人を両方ドラマに引き寄せようということと、彼女に子守歌が似合うと見て、子連れ探偵である萩原の子を思う気持ちをクローズアップしようとしたのだろう。
 監督は前回につづいての恩地日出夫。同じ監督の「悪女」で緑魔子が靴をのかかとを壊して逃げたのと同様、今度も松尾は靴がらみで萩原と印象的な場面を演じている。同じ「悪女」がらみでもうひとついえば、終盤近くにでてくるプレハブの建った空き地に、「悪女」で使われていたフォーク・ナイフセットの入った段ボールが乱闘の小道具として使われているのが見える。
 今回は誘拐された子供を捜すため、萩原と水谷は駆りだされる。子供といっても思春期の男の子なのだが、ララバイ・ミツコという芸名を名乗る松尾和子とデートしていたのを級友たちに目撃されていることがわかる。ララバイ・ミツコが秘密の鍵を持っていると見た修たちは彼女が専属で歌うクラブに従業員として入って近づいていく。
 探偵といえばシーク・アンド・ファインド。これまでになかった明確な筋立ては路線変更の結果によるものだろう。
「傷だらけの天使」の本編は三つのパートに分かれている。最初に約20分、つづいて約10分、そしてまた約10分。タイトルを入れておよそ45分になる。
 三つのパートは物語の定型でいうところの序破急の形にすべておさまっている。簡単に述べると序は始まり、破はそこからの展開、急は結末となる。もちろん序の終わりは次のパートへの興味をつづけるものでなければならず、破に至ってもそうだ。
 序の最初の10分で物語がどのような話なのかや登場人物のキャラクターを巧みに描き、残りの10分で物語が転がりだして、序盤では思いもつかなかった形を見せて、さてどうなるかと破に向かっていく。
 推理小説でいえば最初に犯人だと思ったものがじつは違っていたとわかり、新たな謎がでてくるのが序の結末になるだろうか。
「傷だらけの天使」のシリーズの前半はどの回もめまぐるしいスピードで序を描いていた。たぶんそんなところも当時の視聴者を置き去りにした理由だろうか。今回はララバイ・ミツコと萩原が話をするところで序が終わる。ララバイ・ミツコが怪しいことは見ているとわかる。さてどうなるかの期待よりも、ララバイ・ミツコと萩原の人情に傾いている。そのせいか、シーク・アンド・ファインドでいながら、のんびりとしている。
 ララバイ・ミツコに会うまでは、萩原が誘拐された信彦という名の少年を捜して同級生たちに声をかけるシーンがあって、次に水谷は信彦の同級生たちを連れてレストランに行き重要な秘密を聞きだす。
 シリーズの前半では修がつねに事件を引っ張っていき、あくまで亨は助手であった。水谷の人気を無視することができなくなり、彼も主役のひとりとしての扱いになってきている。そのためふたりの見せ場を用意しなければならず、物語はストーリーを描くよりも、キャラクターに寄り添い始める。スピードダウンの原因はそのへんにもあるのだろう。
 今回松尾和子と萩原はいいセリフのやりとりをする。しかしどこか上滑りであったり、親を持つ子供の愛が紋切り型であったりするように感じられる。子持ちといっても萩原は実生活ではまだ結婚していない。子を持つという設定はあくまで味付け程度である。その証拠のひとつとして前回最後で引き取ったかに見えた健太は再び千葉に戻されて登場しない。これまで同様写真や声だけの出演であれば、味付け程度の扱いが生きるけど、生身の動く健太を見せられてしまうと違う。
 亨は誘拐された信彦と気持ちを通じ合う関係になる。信彦が亨と同じ孤児だったとわかったからだ。亨は孤児であった過去を健太のようにまだあらわにしていないため視聴者に想像の、のりしろを与えてくれている。ふたりの関係に松尾と萩原のような違和感を感じない。
 この回は人情モノと探偵を組み合わせて、どっちつかずになっている。忘れがたいものにするならば、萩原はまず松尾和子ことララバイ・ミツコに歌を通じて惚れていて、彼女の歌う子守歌を自分にもそして母のない健太にも聞かせたいという一方通行の思いがあって、ララバイ・ミツコに事件の重要なキーとして会い、彼女の実像に触れていき、その夢が虚しく潰える展開なのではないか。
 そうすることができなかったのは水谷の見せ場も用意しなければならない尺の事情もあったのだろうか。
 萩原が靴を壊した松尾和子をおぶるといういいシーンがあり、また本職の歌手である松尾和子が精魂込めて歌うララバイがあったのに……。
 しかし「傷だらけの天使」の魅力を修と亨の漫才ぎりぎりの軽妙なやりとりとして楽しむなら、今回も十分過ぎるほど楽しめることは確か。
 けれどそれだけではもうないことを、ここまで見て来たものはよく知っている。ただ、当時評判を聞きつけて見た初めての視聴者にとっては、これくらいがいい口当たりだったのかもしれない。視聴率は年明けより徐々に回復していったのだから。 

16 愛の情熱に別れの接吻を

  ーー萩原のように女を口説き、そして棄てたかった、テレビの前の若者たち 

 ゲストは高橋洋子。桃井かおりがまだ知名度の点で物足りないものがあったとしても、高橋洋子は別だった。NHK朝の連続テレビ小説「北の家族」の主演であったからだ。当時のテレビ小説は一年間あった上に視聴率も高く、お茶の間での認知度はいまよりも格段に高い。高橋洋子は「傷だらけの天使」放映の前年にあたる73年の春から74年の春まで毎日テレビに登場していた。
 連続テレビ小説のヒロインは明るく清楚が一応の決まり。高橋洋子も同様のキャラとして登場したわけだが、いまの主演女優にもときどきいるように、番組出演後にもうひとつの別の顔、ひょっとするとそちらのほうがほんとうかもしれない顔を見せた。
 高橋洋子は熊井啓監督の「サンダカン八番娼館」で戦地の娼婦を演じて実力を示し、神代辰巳が「傷だらけの天使」のあとに撮影した映画「宵待草」でも好演した。「宵待草」は脚本が長谷川和彦で、音楽はまだ知られていない細野晴臣が担当している。同時上映は萩原のライバルといえる沢田研二の主演映画「炎の肖像」だった。この回は「宵待草」が公開を終えた頃にちょうど放映されたことになる。
 高橋洋子は演技派というよりも雰囲気を持った女優だった。おおざっぱにいうと、この頃に現れたちょっとなにを考えているのかわからない現代的な少女で、もう一方の代表は秋吉久美子だったろう。ふたりはともに斉藤耕一が監督し、吉田拓郎の「今日までそして明日から」が印象的に使われた「旅の重さ」でデビューしている。斉藤耕一はといえば、萩原の実質的な映画デビューといえる「約束」の監督でもある。
 70年代は演技派であることよりも、感覚的、フィリーングといったもので称される芝居のほうが受ける時代でもあった。斉藤はフィーリングに傾いた俳優たちを使うことに長けていた。

 高橋洋子はそのフィーリングを大いに買われての今回の登板だったのだろう。ディスコでひとりぼんやりとしているやや場違いな女として現れて、萩原の一夜限りの相手になる。朝のホテル街でいつもやってるように女と別れたはずだったのだが、この女はいつものような女ではなかったというのが物語の展開である。
 萩原たちの仕事である探偵は高橋とは別にある。ホストクラブに通っていた女が行方不明になったことから、そのホストクラブに潜入することになる。萩原と水谷は前回につづいて夜の仕事に入り込む。萩原の相手をした女が殺されてしまう。殺したのは最初に行方不明になった女と同一の犯人か? という流れに先の高橋がからんできて……。
 テレビはいまとは格違いに大きな、情報発信基地であったと今回を見ていて筆者は思った。たとえば、もっと早い回で触れてもいいのに、なかなか触れぬままここまで来てしまったが、ペントハウスにある電話の下にある留守番電話の存在。こんなものを見たことは最近の若者はもうないだろう。これが留守番電話なのだと聞くと、手のひらにおさまるほどのスマートフォンのCPUが、かつては体育館いっぱいの広さを必要とするようなコンピューターに迫ると聞くのと同じくらいの驚きかもしれない。
 留守番電話に載った電話はプッシュ式で、綾部情報社も、会社の社長室も、すべてダイアル式。プッシュ式の電話はまだ夢のようなものであったのだから、留守番電話はもう夢の海外旅行というくらいの庶民にとっての高嶺の花である。このドラマで初めて見た人は数知れずいたはずだ。
 今回茶の間に登場した情報はホストクラブであったり、ディスコ、そして朝のラブホテル街である。どれも「傷だらけの天使」が初お目見えではないだろうが、お色気ドラマでも、刑事ドラマでもない、青春よりのドラマのなかでは珍しいものだ。
 ディスコはセットでなくロケだろう。最初に流れるキャロルの「ヘイ、タクシー」はキャロルの演奏でなく、プレイヤーは見えないが、ディスコの専属、ハコバンと呼ばれた人たちのものだ。楽曲が使えなくての処置かと思って見ていたが、キャロルの「ファンキー・モンキー・ベイビー」がオリジナルで流れるシーンもある。
 ホストクラブでは中条きよしの「うそ」がピアノアレンジでジャズ風味で演奏されていて、ジャズはペントハウスのラジカセからも流れている。
 萩原同様、ディスコから女をお持ち帰りする水谷だが、案の定やっぱりうまくいかない。水谷は萩原にその顛末をジャズの流れるラジカセを手に踊りながら話しだす。萩原もいっしょになって踊り、このコンビのデコボコぶりが冴え渡る。
 情報といえばもうひとつある。いや、こちらのほうがこのドラマのほんとうの情報だったといってもいいだろう。萩原の女の口説きと、別れのセリフと、自分勝手な振る舞いを女に詫びる態度だ。若者たちは得難い情報としてありがたく受け取ったに違いない。
「傷だらけの天使」の魅力は萩原が正真正銘の憧れのアニキであったことにもある。どうしようもないスケベであるのに、いざとなればなにもできない亨は、視聴者の若者の姿だろう。視聴者はアニキのように女を口説き、別れ、また謝りたいと憧れた。
 亨は貧しいオカマであったのに、ここに来てかわいい亨に変貌していく。萩原の代わりにホストクラブに潜入することになった岸田森は子分として連れ込んだ水谷に、きみはいろんな姿が似合うね、とホスト姿をバカにする。岸田森はがちがちでマジメな芝居を辰巳五郎に演じさせる。水谷はバカを飛び越えてしまってかわいらしいおもちゃとなった亨を演じて年上マダムになついていく。
 修は子供を持つ親という大人の世界に足を突っ込んでいるのにいまだに女遊びをやめられずにいる。亨はアニキの擁護の元で好き放題を生きる子供である。若い視聴者は修と亨のあいだに挟まれて「傷だらけの天使」という夢を楽しんだのだ。
 高橋洋子は萩原との一夜限りの思い出を忘れられず、乱暴で狂気に満ちた行為を繰り返していく。ホストで萩原の相手をした女を殺したのは高橋だった。
 今回のテーマとキャストが前半のテイストとテンションに包まれていたら、この回も名作の殿堂入りに近づいていたかもしれない。
 脱ぐことを厭わないはずの高橋洋子は長い髪のあいだからコアラみたいな白い顔をだすだけで、どんな風に萩原に抱かれたかを見せてくれない。高橋が拒否したと思えないので、プロデューサーサイドの要請だったのだろうか。神代監督作の「港町」ではいきなりのセックスシーンがあった。それがお茶の間に拒否されたという指摘もあり、避けたのだろう。
 監督の鈴木英夫は「金庫破り」で冴えた腕を見せてくれたので残念だ。彼の得意とするセミ・ドキュメンタリータッチはディスコと朝帰りの様子にうかがえるだけ、よけいに……。
 高橋と萩原がどんな夜を過ごしたか、少しだれでもあればまた違っていただろう。そこがすっぽりないから、世の中にはこういうヘンな女もいるんだなという勘違いを視聴者にされてしまう終わりになってしまっている。あるいは萩原はもう少し真剣に女を愛すべきだという感想に。

 情報発信でいえば、岸田森が水谷とともに、鍵を偽造する際に見せる秘密兵器は、こういうものがあるんだとまるでスパイ映画を見るようでもあった。
 萩原と水谷のイキのあった芝居がなければしんどいところのある回だ。しかしそれを番組との別れにしないのは、ジャズで踊る修と亨の振る舞いがあまりにおかしいからだ。このやり取りは番組終了後の夏に萩原の実質的なソロデビューシングルとして発売された「お前に惚れた」のB面「兄貴のブギ」で聞かせてくれるふたりを彷彿させる。

 年が明けてから視聴率が良くなっていったのは番組の路線変更もあったのだろう。それに加えて、年明早々に発表された萩原の「キネマ旬報」の主演男優賞受賞もあったのではないか。あのGS上がりで、感覚的な芝居をする若者が、日本でいちばん権威ある映画雑誌で主演男優賞を得たというニュースは、いまならアカデミー賞に選ばれるくらいの衝撃だったからだ。

17 回転木馬に熱いさよならを
  ーーおまえの好きなビジネスとはこれか、と天使は静かにいう 

 この文章を書くに至った動機のひとつに「傷だらけの天使」が中盤から表情を変えていくその顔をよく見たいのもあった。また「偽札造り」の回でもいった、もしこの回から見てしまったら魅力に気がつかぬまま、あるいは誤解したままとなり、見るのをやめにしてしまって欲しくないための、手引きを書かねばという使命感もあった。
 今回は「地雷」のひとつにあたるかもしれない。しかしこの回は全体の出来が悪いのに、いやそれだから萩原たちががんばったのか、「傷だらけの天使」を語る上で見逃せないシーンや、やりとりがあって、単純にスルーするわけにはいかないのである。
 遊園地が舞台で、ロケ地は「多摩川園」。経営不振がドラマ内で語られるように放映数年後に閉園していまはない。
 萩原と水谷は遊園地の従業員として潜入し、園を運営する社員たちを煽って騒動を起こそうとしている首謀者を突き止めることになる。
 探偵らしいといえば探偵らしい。いくつかあるパターンでいえば潜入ものとなる。しかし前回もそうであったようにうまくいかないことが多い。成功する例は、萩原が犯罪者ぎりぎりの体で渦中に突っ込み傷だらけになって逃げまどう場合だ。
 今回は遊園地なので、やはり傷だらけになる要素は少ない。
 事件の首謀者は今回もすぐにわかる。視聴者は萩原に推理を求めるわけではない。修や亨には似合わない。けれど犯人が誰なのかということが、驚きや悲しみで視聴者に届けられていたら、全体の印象はかなり違ったものになっていただろう。
 事件の中心にあるのは、会社内での恋のさや当てである。よくあるものだ。しかしそれはまだいいとしても、結末自体が親と娘の話におさまり、ホームドラマ的になるので、全然「傷だらけの天使」っぽくないのだ。
 前回に引き続いて監督は鈴木英夫。井上堯之バンドの楽曲は二カ所で流れるだけ。またその一カ所は名シーン三十選があれば入るかもしれない出来であるのに、あろうことか同じ曲を修と亨がいないところでもまた使ってしまうので、ちょっとうまくない。たとえていえば「傷だらけの天使」のあのテーマ曲を縁もゆかりもないCMやバラエティのBGMとして聞いたような違和感を残すのだ。
 鈴木英夫の問題でなく、脚本やスケジュールのせいもあるのだろう。なにしろ鈴木英夫はあの「金庫破り」を撮ったわけだし。スケジュールはだいぶ押し、また予算もかなり逼迫していたのだろう。
 萩原と水谷はまるで現場で時間待ちをしているときに交わしている会話のようにふたりを演じている。
 サボタージュという言葉がでてきて、中学中退の亨はよくわからない。この言葉の他にカタカナ語は彼らにとっては馴染みのない世界だ。「ヌードダンサー」で岸田森がいう、アンニュイを修は知らず、「ピエロ」ででてくるジェラシーを亨はうまく発音することができなかった。
 そのくせ萩原は前回今回とナイーブを使う。これはなぜかというと、萩原の主演男優を取った演技は現代の若者を代表するナイーブな演技と評されたからだろう。ナイーブは日本語に置き換えがたい意味をもっている。いまではたいていの人は知っているけれど、当時はサボタージュやジェラシーと同じかそれ以上に意味深そうでありがたい感じのするインテリ臭のある外来語だった。前回でのナイーブはドラマ上の必然で、一夜限りの女と夜をともにした自分を語るための、わかったようなわからないようないいわけだった。今回はほとんど遊びの域での使われ方をしている。
 前回で言及した「兄貴のブギ」のなかで萩原と水谷が曲の合間に兄貴と亨を演じてみせるやり取りである漢字の元ネタが今回でてくる。
 わけあって初めて報告書を書かされることになった水谷は、先導という字が書けず、萩原に訊くと、センドウとカタカナで書いてごまかし、漢字はおまえのほうがよく知ってるでしょ、といわれる。先生の先だね、という水谷に、戦車の戦でもいいんだよという萩原。
 同じ「兄貴のブギ」にでてくるゲイバーのポンタは「母のない子」にて水谷の会話ででてくる。いっしょにお正月を迎えたいという水谷に、おまえの女友達と迎えろ、と萩原がいい、その女友達が、女装した女友達で、女装したまま田舎に帰るというオチになっていく。
 報告書を届ける水谷は、岸田森が児童公園の階段の手すりを滑り台にして無邪気な顔で遊んでいるのを目撃する。また水谷は岸田森以上の無邪気さで遊ぶ様子を見せてくれる。
 裸がなくても傷だらけになってしまう状況がなくても、十分に面白いのは面白い。
 さらに報告書を偽造した岸田森を萩原と水谷が追い詰める場面があり、ここが先に触れた名場面のひとつ。こんな事務所はもうやめてやるといい、おまえの好きなビジネスというのはこれか、とカネさえ入るなら何だってやる岸田森を冷ややかに罵倒する。
 このあと、あっさり岸田森が翻意するのは物足りないが、事実をぶちまけたことは気持ちよかったでしょという水谷に、カネをもらえばもっと気持ちがいいよ、とあっさり感を補う捨て台詞を吐いて巻き返してくれる。
 いつも血まみれになったり、女に惚れては女を最後に殺してしまっていたりでは、いずれ刺激はなくなりパターン化していくことだろう。今回のような子供の楽園を夢見る理想を持った遊園地職員と社長が、敷地を売却して金儲けに走ろうとする社員の悪巧みを暴く物語もあっていいだろう。でもちょっとよくある話で淋しい。「傷だらけの天使」はこんなものではないのだ。
 遊園地の社長を演じるのは中原早苗で、深作欣二の夫人。ということは本物の健太の親である。健太という名を持つ萩原が子供の話を中原としながら回転木馬に乗るのは面白いといえば面白い。
 どうでもいい小ネタをいえばヒロインとして登場する江夏夕子は後年目黒裕樹の妻になる。目黒裕樹は松方弘樹の弟で、松方の元夫人は仁科亜希子(明子)。今回見ていて気がついたのだが、江夏夕子は仁科にどことなく似ていて兄弟ともに似たような顔立ちの女性が好きだったんだなと思った。
 また悪巧みする専務役の福田豊士は、りんごをかじると血がでませんかのフレーズで知られたデンターライオンのCMの俳優である。
 タイトルにある「回転木馬」はいいとして「熱いさよなら」はよくわからない。社長がラストでやめてしまうからだろうか? ちょっとこじつけっぽくもない気がしないではない。「回転木馬にりんごの血を」では、冗談にしか響かないか。つまらないときは冗談しかでないのは萩原と水谷、岸田森といっしょかもしれない。

18 リングサイドに花一輪を
  ーー当時のドラマのアベレージでは修たちの世界級のKO負けか? 

 今回は「港町」や「ヌードダンサー」系譜の、男に惚れて脱線パターンのひとつにあたる。ボクシングジムの立ち退きを狙うものたちの手で修たちはジムに送り込まれて、ジムの評判を落とす使命を負う。そこで出会った熱血トレーナーの中谷一郎に萩原は惚れ込み敵方に乗り込んでいく。
 久しぶりに乱闘して傷を負う修が登場する。しかし傷の具合は驚くほど軽い。規正でも入ったみたいに萩原の生傷が減ってしまっている。
 自分の夢をボクサーに託すトレーナーである中谷一郎は胆石の痛みをこらえてインチキ医者から買ったモルヒネを打ち、かわいがるボクサーのタイトルマッチに賭けている。
 村田秀雄の「人生劇場」が流れて、義理と人情を描いているわけだが、心に迫ってこない。「港町」や「ヌードダンサー」もかなり無茶のある展開で物語としては破綻しているのに面白くなかったという印象は残さなかった。
 今回も「地雷」かもしれない。
 水戸黄門の風車弥七を演じた中谷一郎に池部や室田の迫力が備わってなかったのだろうか。ボクシングトレーナーという役柄がうまく合わなかったのだろうか。ボクシングジムはバンタム級王座でお茶の間でも知られたファイティング原田が経営するジムで撮影されているから本物である。
 中谷に萩原がスパーリングででもズタボロにされて反抗心を宿らしながらも、その腕に惚れ込んでいくというくだりでもあれば違ったのだろうか。
 かわりにあるのは亨が通りで打ったケンカに巻き込まれた萩原を中谷一郎が注意する場面。
 そして修と亨がジムで牛乳とあんパンを食べて叱られる場面。オープニングタイトルにある牛乳シーンがいよいよ本編で登場するからファンにはたまらないシチュエーションだが。萩原はあの特徴的な瓶をくわえて蓋を開ける技を見せるが、オープニングタイトルのようにはうまくいかない。オープニングタイトルは成功したのか、それとも開けやすいように仕込んであったのかどちらか。そんなつまらないともいえる小ネタに心を奪われてしまう。
 他にも内輪ネタはあって、筋がいいと見込まれた亨はドラゴン亨となってボクサーになろうかとバカな夢を見て、新御三家よりも人気者になると吹くところで、どれだけ人気者になってジュリーさえ追い越してもオレは無理だろうと萩原は笑う。
 前回にも内輪ネタはあった。渡哲也の曲を聞く萩原に、アニキもまた歌えば、と水谷が薦める場面だ。
 出来がよくないときは内輪ネタが増えてしまう。
 岸田森と萩原の軽いぶつかり合いもある。このあとの回で「また浪花節かね」と辰巳五郎が修にいう背景はこの回から来ていて見逃せないといえば見逃せないが。
 他にも、水谷が乱闘を起こしてジムの評判を落とそうと企てたとき、ケンカに巻き込まれてカバンで殴られる萩原は、カバンが痛いといって叫ぶ。威勢の良かった萩原との落差がいい。
 中谷一郎の横で酔った挙げ句におしっこをもらしてしまうなんて萩原以外に誰がやってくれるだろう。
 水谷が再び乱闘をするのは渋谷の歩道橋で、警察が追いかけてくるところは、「自動車泥棒」での萩原と警察との逃走シーンを軽く思いださせるし、あの事件で初めて新聞に指名手配写真として載る萩原同様、水谷もついに新聞に載る。しかしそれはケンカを売った相手がスリの犯人であったことからのお手柄記事であり、コアなファンにはくすりとなるオチかもしれない。
 早朝の迎賓館や代々木公園でランニングをする萩原と水谷の姿も見られてほんとうに見逃すには惜しい。
 初放映のときに見ていた筆者はそれなりに楽しんだ覚えがある。ただガツンと来るような衝撃はなく、次に期待してテレビのスイッチを切ったはず。こういう回があったからこそ、やがてやって来る衝撃は深いものになったのだろう。
 70年代当時、そしてその後のドラマの多くは、だいたいこれくらいのアベレージであったのだ。
 しかし次回いよいよ息を吹き返すことになる。

19 街の灯に桜貝の夢を

  ーー人気者になっていく水谷への贈り物的名作の登場

 メインライターの市川森一が書いた回である。
 放映終了からおよそ8年後に市川が書いた「傷だらけの天使」の脚本をまとめた本が発売された。
 市川が第一回の向田邦子賞を受賞したこと、先輩世代である倉本聰や山田太一の脚本集が書籍として成功したことなどを受けての刊行だったのだろう。
 市川が書いたのは8本で、シナリオ集では今作はシリーズ七話目に位置して置かれている。しかし実際の放映では今回のあとに「渡辺綱に小指の思い出を」がある。どういう理由なのかわからない。脚本集として物語を楽しめるように配慮されたのだろうか。
 このシナリオ集は表紙を大橋歩が担当している。ふたりの若者が大橋らしいタッチで描かれている。大橋歩といえば「平凡パンチ」の表紙を創刊の1964年から1971年まで担当していた。若者風俗という点での起用だったのだろうが、テレビを見たものにとってはイメージが違う。ちなみに番組内では「少年サンデー」が何度か登場している。
 今回の主役は水谷といっていい。水谷が中心となる回は萩原が不在だったからと思わせる回であった。しかし今回は水谷が正真正銘の主役である。最後まで持つかどうかわからない不安材料だった水谷が立派に成長したばかりか、萩原をも凌ぐ人気を獲得しつつあることへの市川からの贈り物的一作だ。シナリオ集の位置もそのことと関係があるのかもしれない。
 ゲストは関根恵子(高橋恵子)。「太陽にほえろ!」で萩原とも共演し、萩原殉職後に登板した松田優作のGパン刑事と恋に落ちる役を演じた。映画では豊満なヌードを惜しげもなく披露し、当時の若者たちを魅了した。しかし今作では肌の露出がない。桃井と同じといえばそうだ。しかし十分に視聴者を引きつけて放さない。
 まず、関根が自分のヒモ役を演じる水谷と交わすやり取りがいい。関根は物語が進むにつれて衣装や化粧が変わっていく。彼女の心情をうまく現していて、飽きさせないのだ。
 関根は、精神的なホモ、と市川にいわれている亨に対してぞっこんである。岸田森は、油臭いヤングに惚れるような女はひどい顔だろうと笑う。それが美人なんです、と萩原も素直にいう。それくらい驚きは大きい。
 亨は、川崎のうす汚い工場にいた彼女を見つけて、亨の馴染みの風俗店に彼女を紹介して、店でのトラブルに一役買いながら、彼女を立派な風俗嬢に育て上げていったらしい。「兄貴のブギ」でのセリフにでてくる「ゴールデンボール」という店の名前も登場する。
 亨にとっては女がどういう境遇であれ、自分が世に笑われるヒモという身分であれ、大出世である。
 物語はそのヒモ道を説くヒモ仲間が登場するところから始まる。阿藤海(快)に、大口ひろし(広司)が寿司屋にいる。亨も彼らと同様、女の仕事が終わるのを待っている。阿藤が誰かを知る人は当時ほとんどなく、また大口ひろしは萩原とともにPYGに参加し、初期井上堯之バンドのメンバーであり、後年園子温の「愛のむきだし」で主人公に盗撮の技を教える怪しげな男を演じた。
 ヒモ仲間の前でヒモの極意を吐き捨てる水谷はとても彼らしい芝居だ。次の場面での関根とのやり取りで見せるほんとうは情けない姿も水谷らしい。しかしこれは萩原が健太のことを話す芝居の間合いにも通じるところがあり、水谷がいなければこういう役柄も萩原が魅力的に演じただろう。そこを水谷が奪い始めたのかと深読みしたくなる。
 ホステス勤めではたいして実入りがなく、店の一軒でも持っていっしょになりたいとふたりはいい、最近現れた絨毯バーと呼ばれるものに手をだすことにする。絨毯バーはマンションの部屋を店に見立てて客に特別なサービスをする店である。
 亨は修のいないところで、オレにはアニキというやっかいな荷物が背中にのしかかっていると調子に乗っている。そんなことなど露知らない修はペントハウスを絨毯バーにしてやり、亨とともに客引きを始める。
 ペントハウスは女子大生の部屋として模様替えされて、パンダの親戚じゃないのと水谷がいうスヌーピーのぬいぐるみに、ディズニーの目覚まし時計が並び、カーテンも壁紙もかわいいものに一新されてしまう。
 ここまでの展開では、綾部情報社の仕事や事件の匂いはない。街の雑踏や駅の地下道で客を引いて次々とペントハウスに連れ込んでいく様子が語られていく。夜間撮影がいまよりずっと困難だった技術に映された夜の街やゲリラで撮られたと思われる新宿の地下道のシーンはドキュメントのようで生々しい。七階以上あるペントハウスのビルはエレベーターがないようで階段を何度も上がる。客を連れて階段を歩く場面が繰り返してでできて、ペントハウスに見ているものも案内されている気持ちになる。
 裸も謎もないのに見ているものを飽きさせない。
 店は繁盛して昼も夜もの営業となり、最近ではふたりでひとつのベッドで寝ている修と亨は寝る場所をなくして綾部情報社のソファーで眠ることになる。
 綾部貴子はソモア諸島に旅行中で、現地の男たちの原始的なもてなしが気に入ったと絵はがきを送ってきていて不在。綾部が持ち主できみたちにタダで貸している部屋を又貸しするとはどういうことだと辰巳五郎は怒り、彼らにある悪巧みを持ちかける。
 火遊びめいた出来事は徐々に別の様相を帯び始める。
 これまでたいがいギャラは20万。今回は破格ともいえる100万。これは綾部貴子を通さなければ、この価格になるということかと勘ぐりたくもなる。
 修と亨はペントハウスの窓の外にカメラを置いて、客の盗撮を準備する。ペントハウスの外の様子と、ビルの外の景色が見える。あの頃の代々木西口周辺にはまだまだ民家があり、ビルは少ない。近くを走るが、それほど聞こえるはずのない電車の音はペントハウスのシーンには必ず流れている。あとからかぶせた音だろう。その音はオープニングタイトルの冒頭でテーマが始まるときにも聞こえている。もうひとつの「傷だらけの天使」のテーマともいえる。
 カメラ設営で見せる萩原の水谷をからかう様子はたぶんアドリブで、こういうことをいわせてもほんとうに萩原はうまい。マジメな顔をして冗談をいい、眉を八の字にして照れてみせる。

 もちろん彼らの企みは思いがけない方向に向かっていく。今回の萩原は脇に徹しながら、抑えるところは抑えた芝居をキメてくれる。
 弟分の幸福を願うアニキである。特攻隊上がりの空手の名手にコテンパンにされた水谷に湿布を貼ってやる。ねぎらう言葉もなく、仕事の話をする岸田森に、そんなことよりありがとうといってやればどうなんだと修がいう。水谷を叩き、罵倒しても、ほんとうはやさしい。
 やがて冒頭からあった亨が女にモテるはずがないという疑りと驚きは予想通りの場所へと向かっていく。
 関根と水谷のやり取りは最初の小料理屋と、ペントハウスで荷造りをするの二カ所。後者でのふたりは数ある名シーンのひとつとなってもおかしくない。
 関根が他の相手に心変わりをし、イヤがる水谷に、あなたにはアニキがいるじゃないといわれる。水谷は、男同士でどうするのよとベッドの横で顔を埋める。これこそが我々が見たい亨の姿である。
 けれどここで流れる井上堯之バンドの楽曲が、だだ漏れのように使われてしまって、せっかくの芝居に屋上屋を重ねるごとくの押しつけがましさとなっているのが惜しまれる。
 さらに音の選曲ミスはラストでもある。最後の最後に流れた音がまた違えば、この回の印象は大きく変わったのにともったいない。選曲の鈴木清司がいないことが大きく響いたのだろうか。
 リミックスでもできる機会があればなんとかしてもらいたいといいたくなる。
 前回でも思ったが、サスペンスやスリルを主としたテレビドラマシリーズはここで悪いことが起きますよ、怪しい雰囲気ですよという場面では必ずそういう音楽が流れて、ときにそれらがしつこく多用されて、また来たかと辟易することがある。映画と違って、ながら見されるテレビだから仕方なく、テレビはセリフで語り、映画は映像で語るという文法の違いがある。
 毎度違う楽曲を用意したりできないのがテレビであるのは仕方ないけど、必ずしも音楽がその場面に合わないこともある。まあこんなもんだろうとアバウトに使われていたりすることもある。そんなうるさいことをいうなといわれるだろう。ビデオ化されて何度も視聴されることなどまったく考えになかった時代の産物だ。それゆえときにはソフト化された画面にぼかしが入るようなことが起きていたり、肌の露出を隠すために着た肉襦袢が見えていたり、ときにはスタッフが映っていたりもしている。それはそれで別の味でもあるのだが。
 楽曲の位置と選曲をくだくだいってしまうのは、関根恵子がかわいく美しかったからかもしれない。もっと多くの人を有無をいわさぬ完成度でうならせて欲しかったと思うのか。
 タイトルにある「桜貝」とは倍賞智恵子の歌った「さくら貝のうた」から来ているのか。
 市川の脚本集のなかの修と亨のセリフのやり取りは、萩原と水谷の演技よりも説明的でいかにもチンピラといった口ぶりをしている。発売当時に驚きと喜びのなかで手に入れてページを繰った筆者は自分の知っている「傷だらけの天使」とは違うように思った。いまならまた別の思いを持つのだが、セリフとト書きが並ぶ脚本だから、間違い探しの絵を見るように見てしまうのは仕方ない。
 脚本ではセリフが説明的になる部分も必要で、役者の肉体を通すとその説明がいらなくなることもある。
 萩原は常にセリフを肉体化して自分のリズムと語法に置き換えていっている。
 放映がつづくにつれてそのあたりの生理を理解した市川は、回を重ねるごとに、おそらく彼らならこういうシャレをいうだろうというセリフを付け加えている。
 たとえば今回特攻帰りの男が空手の名手だったので、あのブルース・リーが、という蔑称が書かれている。「金庫破り」で小松政夫を、あのアグネス・チャンめ、と萩原が呼んだことからの連想だろうか。しかし萩原は使わない。小松政夫をアグネス・チャンと呼ぶことの面白さに較べて劣ると見たのだろう。天性の勘はダダ漏れを起こさないのだ。
 また萩原が水谷に最後にいうセリフは脚本にない。ただ慟哭にむせぶ亨に修は抱いてやるだけだ。あえてそのセリフはここに書かない。
 音楽の使い方にまでぐだぐたいってしまう筆者がいるのは萩原のそのセリフとも呼応する。「傷だらけの天使」に教えられたのだ、亨が修にいろんなことを教わったように我々も。

20 兄妹に十日町小唄を
  ーー1975年は2012年と同様不況にあえぐご時世だった

 

 復調の兆しを見せた前回だったが、今回はどうだろうか。結論を先に述べると、調子はつづかなかった。
 修と亨が調査員として足で稼いで情報を得るパターンは、このドラマにはほんとうに似合わないのだろう。今回はペントハウスのまえに捨てられた赤ん坊の親を探すため、綾部情報社を巻き込み、探偵稼業が始まっていく。
 チンドン屋をアルバイトでしているというふたりは、不況でカネがないからだが、綾部情報社もたいしてカネにもなりそうにない、また恩を売る汚いビジネスが潜んでいるわけでもない、捨て子の身元調査をやるくらいだから、だいぶ羽振りがよくないようだ。
 ゲストは渡辺篤史である。建物紹介番組やテレビのナレーションで知られるが、当時はテレビドラマで活躍する、なくてはならない存在のひとりだった。坊主頭という、いまと変わらない風貌で、新潟から妹とふたりででてきた苦労人の兄として寿司屋の板前をしている。
 萩原とのからみの場面は大きくわけて二カ所ある。特に後半のやり取りは萩原印のついた名演で、いいたくないけどいわせてもらうけどな、のセリフが耳に残る。
「傷だらけの天使」が忘れがたいドラマとして多くの人に残ったのは、萩原のセリフにもある。その好例がここで聞ける。しかし名場面というには頼りなくなっている。渡辺篤史にやや迫力がないというか、脚本での彫り込みが足りなかったからか、もっといいシーンになっていたはずなのに惜しい。
 萩原と渡辺そして、妹役の伊藤めぐみは、ずいぶんと親しい間柄だったという設定である。
 渡辺が伊藤とともに上京することを回想するくだりで蒸気機関車が雪のなかを走る、おそらく他で使われた撮影部分からの転用である。ここで予算が潤沢なら兄妹が列車内で肩を寄せ合うシーンがあっただろう。それほどリアリティのないただの点描ならあってもなくてもいいけれど、ここで安易に過去の兄妹を出さなかったからか、萩原が伊藤の高校卒業のお祝いに頬にキスしたという回想にプレイバックがないのも、この回はそういう造りとなっていますのでと納得できる。しかしラストに再びよそからの転用と思える雪の新潟のカットもあるので、できうることなら回想を入れたかったのかもしれない。
 そういう代わりとしてではないだろうが、冒頭いきなり時代劇で始まる。チンドン屋をしていることから来る夢オチなのだが、萩原、水谷、岸田森が、白塗り、バカ殿、岡っ引きといった姿で時代劇のセットを走り回る。レアといえばレア。しかしこういうシーンもあるのですよ、というくらいの珍品で、あの「傷だらけの天使」としては相当に物足りない。
 監督児玉進は「リングサイド」「非常の街」「ピエロ」と撮り、「非常の街」は心に残り、またこのあと二本を監督するが、どれも不調が嘘のような快作として仕上げてくれている。うち一本は今回と同じ篠崎好なので、脚本のせいともいえないし、回想をうまく使った回も登場する。
 伊藤めぐみは、いまは忘れられた女優であるけれど、当時のドラマを見ていた人ならば、一度は見たことのある魅力ある女優のひとりだ。同じ俳優の夏夕介と結婚を機に引退し、娘は宝塚で愛花ちさきとして活躍してて、美しさは母ゆずりである。
 捨て子の親は誰かというのはすぐにわかり、またその理由もあまり驚きがなく、悲しみもない。十日町小唄や浪曲子守歌が流れるけれど、とってつけたような使い方で、今回も井上堯之バンドの曲はやや押しつけがましい使われ方をされていてかわいそうだ。
 二十六回もドラマがあると最初に撮った曲だけでは苦しくなってくるのだろう。かといって新しく撮る予算も時間もないから仕方ないのだが。
 そのなかで萩原が「憧れのハワイ航路」を歌いながら赤ん坊にミルクをやるシーンはいい。水谷もやりそうなことだが、萩原がやるとかっこ悪さがかっこよく見える、彼だけの芝居になる。水谷がやるとかっこ良さはなく、おかしくてかわいいが勝つ。ふたりの個性の違いだ。
 あっけなく女が死んでしまうことの多い「傷だらけの天使」であるが、今回もそうなっていく。男の勝手な振る舞いで泣きを見るのはいつも女ということか。いまなら、男の幼児性を慰撫するために女をだしにして涙を誘う構造といってフェミニズム筋からは批判も来るかもしれない。
 前回関根は女子大生であることを売りに男を誘った。今回伊藤めぐみは兄の仕送りで女子大生として勉強に励んでいるはずだったのが道をはずしてしまったという設定だ。女子大生であることがいい意味でも悪い意味でもとても重要な記号だった時代である。
 筆者は男で、また思春期にこのドラマを見たため、ドラマの世界観に違和感は持っても批判の視点は持ちにくかった。女の人が見るとこのドラマはまた違った風に見えることだろうなと思う。
 今回も「地雷」かもしれない。しかしこの回にあるいくつかの要素がのちの回に大輪の花を咲かせる布石となる意味で見落とせない。
 最後に転用つながりでいえば「リングサイド」ででてくる店と今回の渡辺篤史の店の寿司屋は同じ店構えである。今回に限らず、アパート、マンションは同じセットを利用していることが多い。あまり細かいことを気にしない時代であったことも理由のひとつだろう。

 

21 欲ぼけおやじにネムの木を
  ーーバランスを欠いた天使はゼロ戦となり現代の空も撃つ

 

 久しぶりの工藤栄一監督の登板で、ここから残り六作となるうち四作でメガホンを取っていく。
 今作は「仁義なき戦い」やたくさんのドラマで悪役を演じた内田朝雄がゲストである。
 工藤と内田という武器は揃い、ベストエピソードに名を連ねてもおかしくない。しかしそうならなかった。
 内田はラバウル航空隊の生き残り上等兵で戦後に巨額の財を築いたが、いまではすっかりボケてしまった老人を演じている。認知症もアルツハイマーもこの時代にないので恍惚と呼ばれている。それは有吉佐和子が書いた小説「恍惚の人」が由来で、森繁久弥により映画化されて小説ともどもヒットして流行語ともなった。
 戦争の生き残りといえば「港町」の池部良が思いだされる。もし今作が前半のテンションで撮られて、萩原か水谷よりのどちらかに焦点を絞って、岸田森のコミカルさを控えてクールに徹していけば、同じテーマと結末でもずいぶんと違った印象となり、ラストの「ラバウル小唄」が胸に迫り、視聴者の心に深く残ったと思える。
 ボケてしまって内田が持っていた隠し財産のありかを探ることになるのがストーリー。やや唐突に萩原が戦線を離脱するように見えて、結局は萩原も加わることになり、対内田がふたりに分散してしまう。萩原か水谷一本で、対内田を描いていれば、内田のほんとうの悲しみはより深く伝わっただろう。亨のキャラでは荷が重いから、修が引き受けたほうがいいだろう。
 内田の家のお手伝いさん役としてでてくる千うららは「コアンドル洋菓子店」の蒼井優をまるまると太らせたみたいなしゃべりで、ペントハウスの風呂に入るシーンまである。どう見たって美しくないけど、萩原はお約束的に千うららの入浴を覗こうと必死になる。
 内田の隠し財産をいっきに手に入れて、そのカネを持ち逃げする夢が膨らむところの脱線はいかにもな感じの「傷だらけの天使」。
 あろうことか岸田森までも抑制のないコミカル演技に加わり、自己パロディを起こし始めているように見える。岸田森が亡くなったとき、勝新太郎が弔辞を読んだ。そこにはこういう言葉がある。「つまらない 本当につまらない役を研究した結果もっとつまらない役にしてしまったり……」と。
 内田は掃除機のホースを高射砲に見立てたり、掃除機のヘッドを回してゼロ戦のプロペラを模したり、芸が細かい。でもどこかすべってしまっている。
 結末で明かされる展開に対して萩原たちがとる行動は、えっ? これが我々の見て来た「傷だらけの天使」かといいたくなるほどの意外さで、陳腐にも見える。しかしそう思ってしまうのは、あるいはミスリードさせられてしまうのは、それまでの演出の悪ふざけのせいではないか。萩原たちは内田のまわりをゼロ戦の真似をしながら射撃する。おまえのような男は戦争中に死んでいればよかったんだという暗喩かもしれない。先の演出や芝居、そして音楽の選曲がうまくいってれば、名シーンになっていたかもしれない。
 そしてその次に内田が子供たちと撮った写真を見る場面になる。そこで彼の、そして作り手たちの秘めたメッセージが現されているように思える。カネばかり欲しがる自分たちの息子や娘を持った戦争世代の親の悲しみが滲んでいる。
 ラストでは、新宿西口の高層ビルを背景に千うららが去るのを見送ったあと、萩原と水谷は「ラバウル小唄」を歌いながら手で飛行機の真似をしながら歩く。内田の思いは萩原たち戦後世代に届かぬままである。せめて萩原、修にだけは届いてくれればとも思うし、きっと届けるつもりで「ラバウル小唄」を歌わせたのだろう。
 タイトルにある「ねむの木」は俳優で歌手だった宮城まり子が肢体不自由児のために始めた「ねむの木学園」にあり、「ねむの木の詩」というドキュメント映画がこの頃ヒットしていた。社会からこぼれた人という意味合いで、老人の話につけたのだろう。
 老人問題がずっと深刻になりつつある現代の目で見ると、ただ笑うにはすませられないところもある。それは戦争の影よりもずっと深いものだ。
 内田の芝居はやり過ぎのようにも見えるが、おそらく本物のボケた老人をたくさん見ているのだろう、いまの目で見ていても的確に映る。それだけにもっと掘り下げた造りがあればよかったのにと……。
 冒頭水谷と千うららはバスで順番を守らない男に因縁をつけられて、水谷は傷だらけになる。バスで順番を守らない人はいまも、たぶん昔だっていただろうけど、おそらく戦後世代の無責任な子供と大人の姿として組み込まれている。それが内田が見る写真と響き合っている。
 内田の子供として登場する亀渕友香はニッポン放送で「オールナイトニッポン」のDJを勤め、社長にもなった、ポップスに造詣の深い亀渕昭伸の妹。リッキー&860ポンドの一員としてデビューした巨漢でゴスペル歌手として現在も活躍している。千うららとともに、なぜか巨漢の女性がふたりもでてくる。亀渕友香は目黒のホテルエンペラーで下着姿を披露までしている。
 そのホテルエンペラーの遠景カットを、冒頭に配さず、途中で唐突にインサートしたり、萩原が調査にいくトルコ風呂でのエレベーターシーンの構図に工藤演出が刻み込まれている。
 内田が崇める「天照大神」の掛け軸を、テンテルオオカミと読む水谷の芝居は亨を語る上で欠かせない瞬間のひとつだ。
「港町」でも感じたことだが、戦争を扱った回は、全体に暗い。 BIGIの衣装や井上堯之バンドの曲のせいもあって「傷だらけの天使」は当時のなかではおしゃれなドラマというように思われているかもしれない。しかし「傷だらけの天使」はスタイリッシュというには少し野暮ったい。最新の若者の風俗を描いたというよりも、若者たちと消えゆくものがぶつかり合うドラマといったほうがいいかもしれない。
 千うららは田舎に帰っていく。都会にいる人たちは心が汚く、田舎は心が純粋できれいであり、だからこそ田舎は消えつつあるもののひとつというメッセージ。
 21世紀を生きる我々はそんな単純なことではないとよく知っている。故郷回帰やバックトゥ自然で丸く収まる世界ではないことを。
 それでもどこかにそんな楽園のような心安まる清らかな場所があるという思いを抱いてしまうのは、人間のどうしようもない性なのだろうか。
 内田はボケて車のなかを飛行機のコックピットと勘違いして、戦争を始める。悲惨な状況にもかかわらずひたすら滑稽で楽しげだ。内田にとってラバウルの戦争は楽園だったのかもしれない。そう思って見ると、ラストの萩原たちの歩きはまた違って見える。
 今作はまとまってないからこそ、見るたびにいろんな顔を見せてくれるように思う。

 

22 くちなしの花に別れのバラードを

  ーーオクラホマミキサーが鳴った恋愛ドラマの名品誕生

 

 名作である。前回の不調や、児玉進が監督した「リングサイド」に「兄妹」とはまるで様子が違う。脚本は「兄妹」と同じ篠崎好。同一のスタッフで撮ったとは思えぬ完成度になっている。
 監督と脚本に追うところは無視できないだろう、しかし萩原と水谷と岸田森の演技がこれ以上ないほどのバランスでうまく収まり、またゲストである篠ひろ子の容姿と演技が加わったところも大きい。
「兄妹」でさんざんケチをつけた音楽のタイミングと選曲はどこもはずれがない。
 また「いとしのクレメンタイン」や「静かな湖畔」の系譜に加わるのが「オクラホマミキサー」である。体育大会のフォークダンスでお馴染みのこの曲が華道藤宮流の家元役である、修たちにとっては超高嶺の花として登場する篠ひろ子をもてなすために流れる。いつもならクラシックであるはずが、なぜ亨が流し始めたのか、単なるおふざけなのかと心配にならないでもないが、ちゃんと理由があり、家元の境遇と修たちの心の虚しさを埋める曲として見事に着地する過不足ない使われ方をする。
 萩原は花嫁である篠ひろ子を結婚式場から奪い去り、藤宮流の隠された秘密を暴くために使われる。

 結婚式場で萩原と岸田森のやり取りもよい。記帳の字を書くのに窮した萩原の手を岸田森は持ち書いてやり、手が不自由なんですという。萩原はそのシーンをさらに面白くするためか、カットの終わりでつまずいて見せて、ただのふざけにしないフォローを加味する。
 清楚で知的かつ秘密めいたところのある篠ひろ子は辰巳五郎の恋心をも刺激してしまう。フランスパンやホテル製のビーフシチュー、それに芥川受賞作の本と、当時ヒットしていた女性用ポルノの「エマニエル夫人」の本を買って、匿われているペントハウスにいる篠のところに持っていく。
 水谷は芥川賞を知らず、また訊かれた萩原も、屋上であるショーみたいなもんだろうと答える。
 ふだんはワインなど飲まない水谷は酔っ払い、だいじょーぶだよ、おまえ、と繰り返して踊りだす。水谷の芝居が冴え渡る。
 萩原は篠といっしょに乗馬を見学し、あんパンを食べ、石蹴りをし、ビー玉を拾う。このくだりは萩原の真骨頂ともいえる見せ場の連続である。受けて立つ篠の抑制された芝居もいい。

 最初は萩原たちを下品で卑しい人たちのように見ていた篠は次第に心を開いていく。萩原が買ってきたあんパンを手で千切って食べる。萩原は、あんパンってのはこうやってがっついて食べるのと教える。また足が悪くて車椅子に乗る篠に向き合う萩原の座り方が彼の気取らない、そのくせ照れ屋な一面を現している。
 篠の誘拐は意外な展開にやはりなっていき、調査は打ち切りとなる。篠はまだ行方不明である。萩原は当然篠の行方を捜したい。しかしビジネスに生きる岸田森は冷酷に終わりを告げる。やめてやるの萩原のひとことがあり、口癖だなという岸田森は問い返し、浪花節がうなれるきみが羨ましいという。このふたりを代表する対決が生まれる。
 いつもの辰巳五郎なら胃が痛みをこらえる方向にいくか、あるいはカネを得る策を練るかのどちらかだろう。惚れてしまってはいつものようにならない。
 岸田森はトイレに隠れて、怪しい男の回したダイアルの音を聞き、番号を読み取り、篠の行方を突き止める。ダイアル電話が過去の遺物になったいまでは辰巳五郎の凄技が伝わりにくいのがもどかしいけれど、このあたりに辰巳五郎の怖さが潜んでいる。
 萩原は篠に熱を入れて、一生この車椅子をオレが押してやるよ、という。このふたりがうまくいくわけがなく、萩原は誰にだってそんな風にして惚れてしまうわけで、篠が本気にすることはないとドラマを見ているものはわかる。
 萩原が公園でビー玉を拾い篠が貸してというと、このあたりは犬がおしっこをするから触ったらダメだという。そのビー玉が効果的に使われている。
 書きたいところはたくさんありいちいち述べてみたいけれど、見ていない人のために取っておく。見たことがある人はもう一度味わって欲しい。
 かわりにこれまで何度か書こうと思いながら、触れずにいたことをいくつかのべる。
 ペントハウスにあるドアの横にある赤の壁。これはずっと謎だった。あの赤は部屋のアクセントになっているが、見ていると、ときどきたわんでいたり、つぎはぎの位置が変わっていたりした。
 今回ずっと見てようやくわかった。あの壁は元から室内にあったのでなく、撮影のためにつくられた取り外しの利く壁なのである。スタート当初は壁の後ろに「上」という字もあり、取り外したときのために書かれていたのだろう。
 ペントハウスの入り口に扉が二枚あるのもよく考えれば変である。建物自体の壁についている最初の一枚がほんとうの扉で、なかの一枚は赤の壁と同様につくられたものだろう。またステレオやロートレックの版画の横は、よく見るとドアになっている。たぶんペントハウスを抜けて外に並んだタンクなどに通じていたのだろう。ペントハウスはたぶん倉庫みたいなものとして利用されていたのを、部屋として改造したのだろう。また赤い壁をわざとつくり、扉を一枚用意したのは、カメラを置くスペースを確保するためであることは間違いない。というのは今回のラスト。ペントハウスはいつもよりも明らかに広く、壁をはずさなければそのようにならない。
 さらにもうひとつ、綾部情報社は外観はロケだが、内部はセットである。残されたスチール写真でもそれは確認できる。上部にマイクが見える。綾部情報社で喋る岸田森や岸田今日子は白い息を吐いている。特に岸田森の白い息が目立つ。岸田今日子は抑えたしゃべり方をしているからそれほど目立たなかったのだろう。当時のセットはずいぶん寒かったのだろうか。
「十日町」で登場する捨て子をもらい受けたい小児科医を演じるクレージーキャッツの犬塚弘も小児科の応接室で白い息を吐いていた。セットは天井が高くて広いから温暖ではないのだろう。しかしいまならたとえ寒くても室内で白い息を吐くようなことはさせないだろうし、場合によってはCGで処理もできるか。
 いい加減な造りともいう人もいるだろう。また萩原は「傷だらけの天使」を若さと勢いでつくっためちゃくちゃなものとしてあまりよくいわないこともある。完成された作品、特に萩原がディテールをきちんとつくる黒澤明の現場をのちに体験しているだけに、粗の多さが気になるのだろう。
 しかしそういった瑕疵など関係なしに「傷だらけの天使」はこれまでもこれからもファンを増やしつづけるに違いない。今作のラストに見られる悲しくておかしいシーンは名作と呼ばれる映画にひけをとらない出来映えだ。赤い壁が取り外されて広くなったペントハウスにオクラホマミキサーが流れる。
 岸田森が亡くなったとき、続編をやろうという思いがあったけど、もうできないと萩原はいっていた。岸田森の存在がどれほど大きかったかは、この作のラストを見れば誰もが肯くはずだ。

23 母の胸に悲しみの眠りを

  ーー手に書いた裸の女にキスする水谷はいいのだが……

  

 せっかくの復調もつづかず。
 今作はシリーズ中もっともできのよくない回にあたると明言しても異論を唱える人はないだろう。放映は3月1日でいよいよシリーズ最終月となる最初の作品。監督は工藤栄一で「欲ぼけおやじ」とセットで撮られたのだろうか。工藤はこのあとさらに二本を監督するが、ここでの不調が嘘のような作品を作り上げる。
 これまでも何度か書いてきたが、けっして悪いわけではない。しかし「傷だらけの天使」としてどうかという点での判断である。その「傷だらけの天使」もどこを「傷だらけの天使」というかで評価軸は分かれるかもしれない。しかし中盤以降の単純な探偵劇ドラマが「傷だらけの天使」と思う人はいないだろうし、また修と亨のやり取りに評価基準を持つとしても、ふたりのやり取りはアベレージを保っているが、前回のような作品を見たあとだと、注文した定食がなぜかハーフサイズだったみたいにがっかりする腹の具合である。
 脚本によるものだろうが、最初の萩原のお腹が減って何日も食べてないという設定は、少し前に見た回の時代劇のコスプレみたいで、コントを見ているようだ。
 岸田今日子登場に「マヅルカ」が流れる。この曲は岸田今日子のテーマといってもいいが、全体を通して見ると、出演していれば毎度必ず鳴ったわけではない。特にてこ入れ後は減っている。またこの頃は岸田今日子不在の場合もあって流れていないことも多い。岸田今日子が不在でも、これは社長からの命令であるというときは、岸田森のいる社長室で流れることはあった。で、今回久しぶりに何度か流れるが、どうも最初の頃のような迫力がない。また岸田今日子がこの頃どんどんやさしくなってきている。
 事件の内容が結婚をまえに水死を遂げて自殺とされた女性のほんとうの死因と背景を探るというもの。結婚を望んだものが自殺などするだろうかと岸田今日子はいい、かつて自分も結婚詐欺師に騙されたことを匂わせる。
 われわれの知っていた綾部貴子とだいぶ違う。途中ハードな綾部貴子が戻ってくるが、以前足が悪いことを強調した演出をそのままなぞっただけで、あまりハートが感じられない。
 スケジュールがたいへんで、脚本も遅れがちで、白紙みたいな状態で撮ったこともあると工藤栄一は語っている。そういったことも原因なのだろうか。
 しかしそういったことよりも、造りが「傷だらけの天使」らしくないことが最大の原因だろう。
 先に書いた依頼の要件に大きな謎や金儲けの罠があまり潜んでないし、萩原と水谷はスカートのなかを覗いたり、女を押し倒したりして、めちゃくちゃな聞き込みをしているけど、刑事ドラマの亜流にしか見えない。
 ゲストのひとりは下條アトム。「世界ウルルン滞在記」のナレーターとしていまでは知られているが、当時は青春スターのひとりとして売り出し中で、萩原とは彼が「太陽にほえろ!」のあとにでた30分の連続ドラマで、沢田研二がテーマを歌った時代劇「風の中のあいつ」で共演している。
 下條は大学をでて二年も仕事につかずふらふらしている厄介者という役柄。女にはよくモテて、もうひとりのゲスト、お色気アクションドラマとして伝説の「プレイガール」に「悪女」の緑魔子とともにでていたひとりの西尾美枝子を最近ハラませている。死んだ女も妊娠中で下條は犯人と疑われる。
 萩原と水谷は下條に襲われる。その場面は工藤監督作だった「殺人者」ででてくる、化け猫とまったく同じ構図とライティング。濡れた道路が光っているアレだ。同じ構図でもこれほど違うのかという印象を受ける。まるで工藤の光と影のプリクラのまえで撮られたアクションシーンみたいだ。
 致命的なのは下條と萩原がうまくからまず、ただ殴り合ったり、追いかけ合ったりするだけ。萩原が下條の気持ちに反発しながらも、心を通わせていたら、萩原が虚偽の報告書を書くことも、そのあともうひとりのゲストで、1950年代にアメリカ映画にも出演していて、「帰ってきたウルトラマン」で隊長役を演じた根上淳とのシーンは名シーンになっていたかもしれない。
 水谷が手に妙な落書きをしてでてくる。手の甲に女の裸の体、親指と人差し指に足が描いてある。親指と人差し指のあいだは女の股になる。水谷は電話をしながら、そこにキスをして嬉しそうにしている。いったいあんなしょーもないことを誰が考えたのか。タランティーノにでも真似してもらいたい。
 また水谷は下條アトムにコテンパンにやられて、胸を赤チン(マキューロクロム)で日の丸みたいに赤くしている。根上淳をゆする場面では服をまくり、白地に赤くと日の丸の歌を歌い始める。
 見せ場はそれなりにある。
 萩原は「マヅルカ」同様久々に、健太の名前をいう。子持ちであるはいっても、名前をいうことはてこ入以降ぐっと少なくなっている。妊娠した女と語り合う場面なので無理から感はないけれど、最後の「いしょうになろうよ」と口説く場面も含めて、ちょっとやり過ぎであるようにも思えなくない。それゆえラストもしまらない。萩原と水谷のやり取りはこのふたりにしかできない間合いと内容でファンには嬉しいのだけれど。
 先の長くないやつにこんなことをいいたくないけどな、という萩原が危篤の下條にいうセリフはザッツ修の必殺セリフ回しだ。……なのにいいたくないけどと、萩原は声を落として、眉を下げて、苦い顔つきでいう。そうやって真似をして、萩原気取りになったものは多いはず。筆者もそのひとりだったことを認めよう。
 だからこれはよくないといいながら、いや、これに限らず作品の完成度が高くないものには、作品から浮いているぶん、他での使い回しが利く、笑いや決めぜりふがあって、見逃せなかったりする。
 今回見ていて気がついた小ネタをいうと、ペントハウスのカレンダーが最初は1月と2月であったのが、次には3月と4月になっている。時間の経過を現したようにも見えなくないが、放映が3月ということに気がついてあわててめくったようにも思えなくない。1月2月のカレンダーはそのままで放映するしかなかったのだろう。
 下條が萩原と水谷を襲うシーンではフォード・サンダーバードが映っている。この車は萩原が前半に乗っていた車で綾部事務所のものだろう。なぜか桃井かおりのでた「母のない子」以降出て来なくなり国産車になっている。たまたまそのサンダーバードが止まっていたというには珍しい車すぎる。
 ここまでで触れる機会のなかった「マヅルカ」について書けば、これは市川森一が指定した曲を岸田今日子の希望で変更になったもの。戦前のドイツ映画で使われた同タイトルの映画の曲で主演のポーラ・ネグリが歌っている。サントラがでるたび、この曲は入らないのかという希望があるけれど、実現していない。なかなか商品化されたものを聞く機会はなかったが、現在はiTunesで買って聞くことができるようになった。しかし「マヅルカ」という映画でどのようにして使われたのか筆者は知らない。一度見たいと思う。
 岸田今日子はこの曲を寺山修司作のNHKドラマに出演した際に知ったという。筆者の個人的な話をいうと、「傷だらけの天使」の放送終了後の翌月、大阪心斎橋のパルコであった寺山修司の写真展の会場でこの曲がBGMとして流れているのを聞いた。その会場内には寺山修司もいて、サインをもらいながら、この曲を聞いたことをよく覚えていてる。そのときなぜこの曲がと勇気をだして聞いていればよかったなと思う。
 タイトルの「母の胸に」は母を思う下條の気持ちなのだが、下條が母を傷つけたくないあまり犯した犯罪だったことからであったとしても、ややしんどい。
 今回シリーズを見ていて思ったのは、萩原は子を持つ親という立場を語るが、自分も親の子供であることは語らない。亨は孤児院で育った親の顔を知らないものであるが、修の家族については謎である。いったい修にはどんな親がいたのだろうか。
「傷だらけの天使」は子供のままの大人である。そういう中途半端な存在には目の上のたんこぶともなる親は必要ないのだろう。「欲ぼけおやじ」「偽札造り」にでてくる年長は、親というよりも古い日本人の姿である。この回でそのへんを描くことはできたのかもしれない。しかし親と自分というテーマのドラマは「傷だらけの天使」終了半年後に始まる萩原のもうひとつの代表作である「前略おふくろ様」でたっぷりと描かれることになる。しかしそれは母のみだ。父なるものは不在のままである。健太が育ったとき、修は父をどう生きていったのだろうか。そんなことまで今回いろいろと考えてしまった。
 そしていよいよ次から残り三話、怒濤の快進撃が始まることになる。

24 渡辺綱に小指の思い出を
  ーー前期傑作群のテンションが中期のコミカルさを通り抜けて傑作を生みだす 

 ヤクザの組事務所に殴り込みをかけたことはあったが、今回はそのヤクザの渦中にイカサマ賭博士として潜り込まされる修である。「傷だらけの天使」はハードな世界に首を突っ込んでこそ。しかしそのハードさはリアリティとは違う。時代のせいか、テレビ的演出のせいか、ヤクザの世界はいかにもなフィクションで、ひとつ間違えればコントすれすれのようでもある。けれど、修と亨にとってのハードさであればいいわけだ。今度のことでいえば、イカサマ賭博を教える師匠は修にとってひたすら怖い存在で、またイカサマ賭博がばれたら指がなくなるかもしれないという設定がドラマの興味を引っ張っていく。
 脚本は市川森一。「ヌードダンサー」で室田日出男に憧れた修にヤクザの世界をきちんと味合わせたかったのだろう。深作演出の「宝石泥棒」冒頭で見せた萩原のふんどし姿がそのとき以来登場する。大江山の酒呑童子である鬼を退治した渡辺綱の入れ墨を体に描いて、花札賭博の帳場に立つことになる。
 水谷にヤクザの世界は似合わないと思ったのか、彼が同じ現場に立たせなかったことで、萩原のコミカルさとチンピラの粋がりが存分に味わえる場面が用意されている。初期の「傷だらけの天使」の萩原を土台にして、彼の軽妙さがふんだんにでてくる。それでいて水谷にもちゃんと見せ場が用意されている。
 水谷は修を訪ねてきた少女の面影を残す、修から大きくなれば結婚しようといわれた四つ年下の幼なじみを演じる坂口良子と行動をともにする。「兄妹」ででた伊藤めぐみも萩原より年下のヒロインとして出演したが、萩原の正真正銘のヒロインとしては子供っぽい面影を持つ年下は「傷だらけの天使」史上初の登板である。萩原には年上の大人びた女性が似合うからだろう。
 坂口良子は幼いときに修と結婚の約束をしたことが忘れられず、思い残すことがないように自身の結婚を数日後に控えたとき、修に別れをいいにやってきたという役柄である。
 子供のときとはいえ、まったくあの修は、子供のときから誰彼となく気があればすぐに結婚を持ちかけているのかと思わないではないが、こちらの約束は微笑ましい淡い恋の記憶のひとつである。
 朝帰りの水谷は、映画はやっぱりポルノだなあ、と嬉しそうにペントハウスに帰ってくる。ポルノ映画の深夜映画を見て過ごしてきたのだろう。そこに田舎から上京した坂口良子から電話がかかってくる。萩原はイカサマ賭博にでかけているため、水谷は坂口良子の相手をする。
 水谷と坂口のやり取りがいい。特にここでは水谷と亨の境界がない演技を披露してくれる。初期ではただ笑っているだけだった水谷は、そこに頭を左右に動かし、鼻声で喋るのを付け加えた。亨の真似をする物真似芸人や素人はこういう亨を参考にしている。萩原は顔の表情を激しく変えるが、水谷のように頭を振ったりしない。同じ動きをするときは肩を中心にして動く。水谷は飛び跳ねる。ふたりの芝居のカラーがはっきりと分かれている。ふたりきりでいるとやや緊張に欠けるときがあるが、もうひとり加えたときや、片方をはずしたときに個性がはっきりする。
 水谷の着ている服はかつてサイコロと独楽の刺繍のついたジャンパーといった珍奇な服が多かった。しかしてこ入れ以降、彼の服は代わり、萩原と同様のBIGIと思えるジャケットになっていく。萩原はネクタイやスカーフ、マフラーを巻くが、水谷は正装するときは蝶ネクタイを必ずするようになる。今回は蝶ネクタイにくわえて、ベレー帽をかぶり、亨のバカボンぶりが強調されている。「回転木馬」の回で遊園地で働くことになったとき、ネクタイをしなければならなくなった亨は修に結び方を訊くところがある。ちょうちょ結びでいいんだよ、と修は答えている。
 水谷は坂口に紅茶を入れてやったとき、とても変わったことをする。紅茶があふれそうになるのをかたわらに置いてあった少女コミックを開き、そのなかに多い分を捨てるのである。もちろん少女コミックはぼとぼとになっている。こんなことをする人にお目にかかったことがない。アドリブだろう。しかしなにごともなかったようにことは進み、修のためにつくってきたという彼女お手製の寿司を食べてしまう。
 一方の萩原はドラマの最初から見せ場の連続である。イカサマ賭博を習うところはダメさからうまくなっていくまで過不足なく、笑いもきっちり用意してある。
 ゲストのひとりである、蜷川幸雄の夫人であり、蜷川美花の母である真山知子はヤクザの姐さんとして登場し、萩原の背中にある渡辺綱に惚れ惚れして、風呂に入る萩原の背中を洗うべくやって来る。偽物だとばれてしまう修は黙って洗ってもらうわけにいかない。ここは脚本にはない。ここでの萩原の芝居というか所作は水谷の少女コミックのなかに紅茶を捨てることがともすれば記憶から消えてしまいがちなのに反して「傷だらけの天使」を見たものならつい喋りたくなる超絶な技? を股間で披露してくれる。桶で前を隠したあと、手を離しても落ちないのだ。桶はいったいなにで引っかかっていたのか? 
 賭博は花札だが脚本ではサイコロ博打になっている。なぜ変更されたのだろうか。サイコロよりも花札を繰れない無器用さから出発して、見事に上達するほうが映像的に面白いと見たのだろうか。萩原の提案がここにもあったように思える。
 さらに萩原が賭場を抜けだして、坂口と再会するシーン。童謡赤とんぼが流れる。公園にいる三人はいきなり馬跳びをしている。久しぶりに会った幼友達とはいえ、それはないんじゃないかというか、ちょっと嘘っぽい、やり過ぎ感がする。しかしキマッたときの「傷だらけの天使」は甘さに流れない。馬跳びの軽い違和感は水谷のまぬけな芝居の伏線につづき、最後にはジャングルジムのなかに入ってしまう萩原の芝居につながり、決めぜりふに着地する。
 ゲストは他に前田吟に天本英世に吉田義男に長谷川弘。名前を聞いてもいまではピンと来ない人もいるだろう。しかしその顔を見れば、あっ、あの人だ、という顔の連続で、またもし知らなくても彼らはドラマのなかで少ない出番であっても印象を残す。
 まゆげの禿げと萩原がいう、前田吟は眉毛を剃り、下手な関西弁だが、なぜか迫力がある。わしはこっちのほう専門で、とシュークリームをがっつく場面も面白い。
 もちろんイカサマ賭博の結末は想像通り。そしてそうなってからが、この回のほんとうの見せ場。ヤクザのなかを逃げ惑い、走り、暴れ、殴られ、血まみれになる萩原の芝居は萩原以外にできない。いや、松田優作ならもしやと思えなくないが、仮に似たようなことを彼がやっていたとしても、それはここから来ていることは明白だろう。
 小指の思い出とは萩原がイカサマ賭博で受ける仕打ちを現しているが、伊東ゆかりのヒット曲「小指の思い出」。もちろん坂口良子にした恋の約束ともからんでいる。
 45分間まったく無駄なし。ラストに十分な間合いも用意されて情感も過不足ない。今回初めて萩原のモノロークで終わる。市川脚本では「……やっぱり……俺はもう……恋は出来んぜ……ああ眠い……おやすみ……佳世ちゃん……」だったが、萩原は違う言葉をいう。見てないもののためにあえて書かない。そして見たものはまた確認のために再見して欲しい。
 番組では最後に予告編が必ず流れる。なぜかこの回の終わりの次回予告のナレーションは淀川長治の解説風で始まり、今回だけいつものナレーターではない。変わったのかと思ったら、次回ではいつもの声に戻っていた。誰が務めていたかはわからない。おそらく局アナのひとりだったはずだが今回の代役の理由とともに謎である。いつもコンパクトに次回の内容をわかりやすくまとめて語ってくれる予告編である。襟目を正した乱れのないしゃべりは「傷だらけの天使」の世界とはギャップがあるけれど、これはこれでいつもの決まり事として楽しみのひとつだった。ドラマが終わって日常に戻るための、劇場通路のような役目のようだ。

25 虫けらどもに寂しい春を
  ーー時代の反逆児からウジ虫たちへの痛恨の一撃 

 
 この文章は見てない人のために作品をより楽しんでもらうための手引きという側面もあるため、出来る限り鑑賞の邪魔になるようなことは避けてきた。しかしいよいよシリーズも大詰めに差し掛かり、触れざるを得ないことも避けられなくなってきた。
 そういうことをいうことで、なにか凄いことが待っているのかと期待を煽りたくないのだが……。この頃のドラマはいまのように番組への興味を最後まで引きつけるために謎の提示やその解決といったことをしないものが多く、それがふつうだった。もしいま「傷だらけの天使」がテレビであれば、綾部情報社の後ろにある黒い影や、修の過去についての謎を小出しにしながら、最終回でいよいよすべての問いが判明するといった仕込みを絶対とっただろう。それはそれで面白いかもしれないが、そんなことなどなくても、視聴者はドラマを毎回楽しみにしていた。ドラマにでてくる登場人物に毎週一度会いたいというのが視聴の動機を占めていたのだ。
 とにかくここから二回は見ていることを前提とした上で遠慮なく語るので、もしこれから見るという人は鑑賞後に読んでいただければと思う。
 今回この文章を書いた動機のひとつには、続編はほんとうに可能かということを検証するために始めたこともある。「くちなしの花」で岸田森の存在がいかに大きかったことでもわかるように彼がいないことは続編の可能性をきわめて難しくしている。プロデューサーの清水欣也もまた続編を企画していたが、岸田森がいなくなったこともあり、実現しないままとなったと語っている。さらに2006年には岸田今日子までも亡くなっている。主要登場人物の半分が欠けたことになる。しかしなによりも大きなことは亨が最終回で死んでしまっていることをどうするか……。
 亨の死は衝撃で、おそらく見てない人も水谷が最後に死ぬドラマであることくらいは知っているだろう。先の配慮などしなくてもこのドラマはオープニングタイトルと水谷の死で知られてしまっているところがある。懐かしのドラマ特集で「太陽にほえろ!」とともに定番となった「傷だらけの天使」である。しかしオープニングタイトルはともかく、水谷が死んでドラム缶に入れられて夢の島に捨てられるというシーンを流すことはなんとかならないものだろうかといつも思う。ここまで読んでくれた人は「傷だらけの天使」の良さはもっと他にあるとよくわかっているだろう。まだオープニングタイトルはいいとしても、せめてラストは伏せて、萩原と水谷のやり取りや、ふたりで同じベッドで寝ている姿とか、萩原が「渡辺綱」で桶で前を隠すところや、「シンデレラの死」で水谷がスカートをめくるところとか。笑えるシーンはいくらでもある。
 ビートルズを後追いで聞くものは、解散もジョンの衝撃の死も知って聞く。それは仕方ない。しかしドラマの結末を見せてしまう、それも安易なバラエティの興味本意で暴露するのはやめて欲しい。
 清水プロデューサーが頭に描いた続編では亨そっくりの男が修の前に現れるということで水谷を考えていたようだ。こういう手は続編の定番のひとつで、勝新太郎の「悪名」でも、シリーズ二作目で死んだ勝新の子分であるモートルの貞を演じた田宮二郎は、それ以降貞の実弟として登場しつづける。
 萩原は今度はニセ宗教組織に関わり、スキンヘッドで登場するという設定も考えられていたという。
 それから二十年以上の時間が流れ、2000年代の半ばにまた続編の話が今度は萩原の口から語られるようになった。市川森一はいくつものプロットをつくり、亨は死んでなかったというものや、亨そっくりの双子がいたとかがあったと市川に近い関係者は語っている。
 またその続編とは関係なく、矢作俊彦が「魔都に天使のハンマーを」というサブタイトルで続編の小説を2008年に書いた。そこでは亨はバーチャルな姿で甦っている。
 水谷豊が続編に参加するかどうかはべつにして、当初は萩原がメインであったドラマである。亨のいない「傷だらけの天使」ははたして可能かどうかを初期から筆者は書きながら考えつづけている。
 初期は萩原の魅力の比重が高く、内容の良さと演出もあって、亨が水谷で演じてられなくても見栄えが劣ることはないだろうと筆者は考えた。特に中盤以降ストーリーがやや甘くなるにつれて、萩原だけで「傷だらけの天使」は可能だと思うようになり、下手な小細工で亨を登場させたりする必要はないと結論した。また修が亨の死に衝撃を受けていつまでもそのことを引きずっているというような描写が「魔都」にあるが、たとえ視聴者がそうであったとしても、萩原の演じた修は、内面は別にして表向きはまったくそんなことは意に介していないように生きていると断言していい。もし水谷が出演したとしても、亨に似た男としてちらっとでてきて、萩原が通り過ぎざまに気になり、萩原らしい顔と、セリフが少しあれば十分だろうとも思った。
 しかし興行的な面でいえば、萩原と水谷の再共演は大きなポイントであることは間違いない。ふたりがいることで潤沢な予算が組まれて作品に貢献してくれることにもなるだろう。それでも筆者は萩原だけでいいのではないかと初期の残像のなかで思った。
 ところが中期から後期に向かうところでの萩原と水谷のやり取りを見ているうちにだんだんと考えは変わるようになった。続編、それも最初から時間は大きく経ち、萩原の肉体も水谷の肉体も変わっている。また「傷だらけの天使」的世界がいまの世界にどれだけ合うかにも不安がある。そういうマイナス、不安材料があったとしても、中期のできのよくない物語でも魅力的にしたふたりならば間違いないだろう。また人々は萩原と水谷がひとつの画面に並んでいることを見るだけで嬉しいことは確かだ。それは解散したバンドが再び再集結した写真を見ただけで、いろいろと文句はあっても、古くからのファンには格別なものだ。水谷がどんな理由で再登板してもいい。そんな細かいことをいってせっかくの再会を逃してはつまらないとさえ思える。気になったとしてもしばらくすれば忘れるはずだ。
 しかしそんなノスタルジックなことでいいのか。「傷だらけの天使」のなかにいる修なら、ジジイが集まり加齢臭がするぜ、といい、アニキ、加齢臭ってなに、と亨が聞いて、インドの匂いだよ、バカ、というやり取りをするかもしれない。
 また昨今の映画事情を考えると、映画は映画だけで完結しない。スクリーンという「傷だらけの天使」でまず再会したふたりは公開前にテレビにでまくるだろう。インターネットのインタビュー記事にあふれるだろう。バラエティに、トーク番組に、ワイドショーに。還暦を超えたふたりが並んででてくる。そして当然若かったふたりの演じた修と亨も紹介される。この姿は筆者に耐えられない。いや、それは自由なんだが、「傷だらけの天使」が持っていたスピリットを考えると耐えられない。修が最終回でいう、まだ墓場にはいかねえからよ、といった言葉が虚しく響く。
 今回ラストで巨大なうじむしである小松方正演じる高山波太郎を殴った修はそういう萩原と水谷を殴りに来ないか?
 いや、待て。そういう醜悪な芸能ビジネス、受動的過ぎる一般ピープルと情報まみれのインターネット社会に巣くう訳知りレビュアーにあふれた21世紀であっても、萩原と水谷のふたりは筆者の思いもつかない化学反応を引き起こして新しい「傷だらけの天使」を見せてくれるかもしれない。きっと見せてくれるに違いない。
 ようやく本編に入るが今回は先にもでた小松方正がゲスト。冒頭小松方正がスーパーマーケットにてテレビ中継のゲストとして登場し、買い物にでかけていた亨がインタビューのマイクを向けられる。物価高の世の中をどう思うかという問いにうまく答えられなかった主婦に代わって答えた水谷は、アニキ、見てる? と手を振り、帰ったらアニキの好きな卵入りのおじやをつくってやるよ、とバカ満開の芝居を見せる。それをたまたま見ていた萩原は、オレよりも先にテレビにでやがって、とテレビに向かって声を上げる。このやり取りは見どころのひとつである。そのことをもう少し考えると水谷の面白さを萩原が受け取り増幅させている面がある。初期から中期にかけて水谷が徐々に存在を現していったとき、萩原がなにかいい、水谷がバカな答を返すことで笑いを誘う面が多かった。ところが中期から後期に向かうにかけて、萩原が水谷のボケに翻弄されるようになっていく。初期では萩原は面白いこともいうかっこいい人であったが、萩原はかっこいいけど面白いというように変わってきている。面白いの比重が高くなってきている。まだまだポピュラーでなかったカタカナ語をときおり登場させてきた「傷だらけの天使」でノイローゼという言葉が萩原の口から何度か飛びだしたことがある。アンニュイやナイーブに較べると子供でも知っている言葉だろう。ノイローゼを発するときは笑いにつながらないが、おろおろしている萩原は「前略おふくろ様」で演じたサブちゃんの原点になっているように筆者は思う。「傷だらけの天使」で生まれた萩原のおかしいところをもっと増幅させようという企みが倉本聰の書いた「前略おふくろ様」にはあったはずだ。先の続編につなげていえば、だから萩原と水谷がいっしょにいることでなにが生まれてくるのかは予想もできないと筆者は思う。
 監督は工藤栄一。同じ監督による「母の胸に」の結末と同じく、最後は萩原が嘘を隠してぬくぬくと生きる存在である小松方正を殴る。「母の胸に」がどうにも分の悪い回であったというのに、この回では同じ展開にも関わらず、まるで違う快作となっている。それは小松方正の名演に負うところが大きい。
 小松方正はエセインテリと髪結いの亭主の二役を演じている。高山波太郎という作家でテレビにでて庶民の代弁者を語る男が、そっくりショーにでている自分のそっくりさんと偶然出会い、 自分のいらなくなった愛人にあてがって、自分は他の愛人を得ようとする。
 いらなくなった愛人を黒澤映画「赤ひげ」などにもでた根岸明美が演じている。中年好みのアニキにぴったりと亨にいわれた修である。萩原は根岸の熱い抱擁にたじたじしながら、女のところに通っている男が本物の高山波太郎であるかを調査する。
 小松方正の演じ分けはメガネをずり下げてうだつの上がらぬしゃべりをするほうがニセ者で、メガネをきちんとつけて弁舌鮮やかに語るほうが本物である。ひじょうにわかりやすい色分けで一歩間違えば嘘くさいのに、小松方正が元来持っている嘘くささの個性をプラスにしていて見事である。また彼らは紙一重であるところはニセ者が高山波太郎をそっくりに演じるクラブでの芸でも証明される。本物は立派な家に住み、世の中を憂えたことを声高にいい、ニセ者は酔っ払い、真夜中に妻のやる理髪店に帰って叱られている。ニセ者は酔った勢いで自分は高山波太郎であると道の真ん中で演説もする。本物である高山波太郎が持つどうしようもない嘘くささは、ニセ者の持つ正直で嘘のつけない姿の裏返しでもあり、この二人は似ているだけでなく、ひとりの人間の裏と表でもある。
 修はもちろんニセ者に引かれていく。「傷だらけの天使」のパターンのひとつである男に惚れるの系譜に入る。しかしこの男はいわゆるかっこ良さとはほど遠い真逆な存在である。「偽札造り」の有島一郎も同様だったが、小松の演じたニセ者は卑しさが勝っていて、それだけに修たちに近い存在である。もし番組がつづいていたら小松方正に連なる男はまた登場して、父性をテーマに置いたドラマが生まれていたことだろう。
 ニセ者は本物の不祥事を押しつけられて、刑務所に行くことになる。萩原と水谷は面会にいく。小松方正が柵の向こうでいう、もしオレが名乗りでても似たようなウジ虫はいくらでも現れるんだ、というセリフが効いている。テレビの世界や社会で正しさを解き庶民の味方を代弁するほんとうはニセ者どもをウジ虫と呼んでいることはいうまでもない。それをそっくりというニセ者を演じた小松方正がいうからさらに胸に迫る。
 後年あの「金庫破り」の赤いバラの殺し屋も演じた加納典明は市川の「傷だらけの天使」の文庫版での帯文にて「時代の反逆者のドラマだ」といっている。萩原がニセ者の代わりに本物の高山波太郎を講演会場の階段で殴って去る姿に重なる言葉だ。ただの乱暴者にしか見えない修は子供にやさしく、仲間に手厚い一面をこれまで見せてきたが、ついにもっと大きな相手に向かってその暴力を有効に示した瞬間が刻まれている。
 萩原はシリーズ最初にレイバンのサングラスで登場し、べっ甲や黒のフレームのサングラスになっていった。季節の変化により、コートを着ることが多くなってのコーディネイトだろう。ここでは初めて、サングラスでなく、銀縁のメガネで登場する。高山波太郎が文壇の男であるため、彼を尾行したとき、インテリを気取ったのだろう。そのメガネをして萩原は高山波太郎を殴る。無駄のないカットと計算された動きでその様子がとらえられている。
 このシーンではこれまで一度も流れたことのない曲が流れだす。高山波太郎のいるクラブで流れた中条きよしの「うそ」のピアノアレンジは「愛の情熱」のホストクラブでの使用につづいて二度目で、お馴染みの「女の操」も流れている。聞いたことのない曲はまたなにかの流行歌かアレンジされたものか。いや、ここまで見知らぬ歌謡曲は流れなかったし、曲は歌を伴っているが、歌謡曲ではない。新しいサウンドトラックか? 「傷だらけの天使」のサウンドトラックに似た旋律を持っている。井上堯之バンドにはヴォーカルがいない。しかし誰かが歌ったのか。萩原の声にも似ていなくない。曲は高山波太郎を殴った次のカットにもつづいて流れていく。

 次のカットは萩原と水谷が並んで歩きながら、水谷が買ってきたあんパンを食べる。あんパンを食べて歩くだけの姿がせつなくて美しい。ふたりは傷だらけではない。しかし心に傷を負っているのはありありとわかる。「傷だらけの天使」の姿が完成している。
 流れる曲は後年明らかになる。「一人」。これは最終回でも流れる。ラストと劇中で。デイヴ平尾が歌っている。ゴールデン・カップスのリーダーで、萩原と同じGSから俳優に転向したひとりである。曲は井上堯之で詞は井上堯之バンドに在籍した岸部修三(一徳)。「傷だらけの天使」が熱く語られることのひとつにこの曲の存在も大きく、またこの曲は井上自身が萩原とデュエットしたカバーや、柳ジョージによるものなどあったが、オリジナルを聞く機会はこのドラマで見るしかないという状況が続いたために、ファンの飢餓を煽った。
 サントラアルバムにも、また後年でたドラマ内で実際に使用された効果音的なものまで含めたCDや、ドラマを収録したレーザーディスクにも特典として入らなかった。会社間の貸し借りが用意でなかったため、オリジナルの権利を持っていた東芝が他社から発売された関連商品に協力しなかったことも大きい。
 なぜ「傷だらけの天使」で使用された曲が東芝より発売されたかはデイヴの所属であったせいなのだが、長らくその曲が音盤化されていることさえ知られてなかった。90年代半ばに「一人」はついにテレビ番組の曲を集めたコンピレーションに収録された。いまではインターネットですぐにわかるが、その曲はドラマよりも三年も前にシングルとして発売されたデイヴのソロ第一弾のB面に入っているものだった。A面は「太陽にほえろ!」で使われたらしい。なので萩原も知らなかったわけがない。この曲を使おうといったのは工藤監督であると自身は語っている。もとは萩原が提案した可能性も高い。まるでこの曲は「傷だらけの天使」のために、それも最後のために用意されていたかのようにはまっている。
 亨の死とともに、この曲がなければ、語り継がれる熱さはずいぶんと違っていたものになってたに違いない。
 この回は水谷の、いってやってきいてやっていってやってきいてやって、という亨らしいセリフや、萩原の、まったく小説っていのうは失礼だな、漢字ばっかり多くて、というセリフと、お楽しみは多い。また報告書を書く萩原も再登場する。
 岸田今日子は久しぶりに杖でテーブルを叩き、その音にあわせて、萩原、水谷、岸田森が動きを変えていくシーンも見どころである。
 まだまだつづいて欲しい、いつまでも見ていたいという思いは大勢の視聴者の偽らざる気持ちであったろう。しかし物語は次回で突然終わる。もちろん最終回であることは決まっていたことだが、その終わりは突然以外なにものでもない終わり方をする。
 最後に次回予告編のナレーションを全文引用する。
「ハイセイコーも引退、長嶋選手も引退、『傷だらけの天使』もいよいよ最終回、エマニエル夫人も、アメリカンニューシネマも、結果をして花の宴 トルコのあけみも、おかまのモナコも、桜3月花吹雪、地震もあればスモッグだらけ、大東京で総倒れ、たまらんたまらんたまらんぜ、たまらんこけたらみなこけた、だけどまだまだ墓場にゃいかないぜ」
 当時の時代世相が「傷だらけの天使」らしい名詞や言葉とともに読み込まれている。いつもは内容を手短に紹介しているので、今回は特別な語りだった。内容に踏み込んでしまうわけにいかなかったのだろうが、別れを惜しむよりも、楽しげに響く。予告編は萩原がドラム缶を引いているシーンで終わる。予告を見たものでも、誰があんなラストが待っていると予想しただろうか。

26 祭りのあとにさすらいの日々を
       ーーおもちゃ箱から落ちたなまりの兵隊さんはドラム缶の恋人を棄ててどこへ?

 

 もう何度見たかわからない。また何度聞いたかわからない。というのは当時ビデオなど高嶺の花。カセットテープに番組を録音するしかない。たまたま従兄弟に頼まれて筆者はシリーズ中最終回のみを録音していた。放映終了後、従兄弟にそのテープを聞かせながら、筆者は番組の解説をした。まるでいまこんなことを書いていることを予見したような出来事である。
 それでなくても強烈な印象を残すこの回を終了後すぐに音で再体験したことは筆者の体や頭に深く刻み込まれるに十分過ぎる経験となっている。
 またこのテープを数年後に紛失したら、同様にテープに録音していた女友達がいて、彼女から譲り受けて何度聞いたことかわからない。筆者の住んだ関西では放送半年後に再放送はあったものの、それから十年近く経つまで、再放送がなかったので、このテープが筆者にもたらしてくれたことはとても大きかった。
 今回は前回につづく工藤栄一が監督し、彼の持ち味が散見できる。おそらく自動車修理工を修に無断でやめて、オカマのバーでアトラクションボーイをやる亨。その店のある通りのネオン看板は「殺人者」でのヤクザ事務所への討ち入りのときに現れた看板を思わせるし、ペントハウスで亨を残して去る萩原を追うカメラには工藤ならではと思わせる光が写されている。ネオン看板のある通りや噴水はセットであると工藤はいってる。
 冒頭からこの回はいつもの調子とまるで違う。地震が起きて、ペントハウスのなかで萩原は逃げ惑い、綾部情報社では岸田森とホーン・ユキも騒然となる。ひとり岸田今日子だけが、ドラマ上初めてとなる、いつもくくっていた髪を下ろして、新宿西口の高層ビルが見える屋上で、この国への愛と恨みをつぶやく。このセリフは脚本にない。岸田今日子にシェークスピアのセリフをアドリブでとリクエストしたらしい。シェークスピアで思いだして欲しい、第一回冒頭で亨はシェークスピアを気取っている。
 ある日突然地震は起きる。なにも予兆はない。最終回とはわかっているが、まるで突然なにもかにもに終わりがやって来る演出と物語の運びである。
 しかし地震は大きな破壊を起こすほどのものではなかったようで、街の様子はいつもと変わらない。萩原は、昨日の揺れは凄かったね、といいながら車を駐車場に取りにいき、車がないことに気がつく。綾部情報社が引き払ったという。
 地震はもっと大きなことへの予兆だったわけで、萩原が向かう綾部たちのいる場所は書類が散乱していつもの顔ぶれはない。代わりにあるのは、なぜか「マヅルカ」の流れ。綾部貴子が座っていたあの籐椅子に座っているのは西村晃演じる海部警部。西村はセリフでいうように、久しぶりである。綾部たちは雑魚である萩原を残してどこかに消えた。綾部貴子のほんとうの姿を突き止めて、海部ががさ入れをしたときにはもぬけの殻となっていた。怪しいところがあった綾部貴子であるが、シリーズがつづくにつれて、ソフトになっていた。本物のワルであるといわれても、ちょっと唐突に感じなくはない。しかし萩原の目からはそのように映ってなかったのだから、見ていたわれわれも同じ、突如路頭に迷った気分を味合わされる。
 萩原と西村のやり取りは素晴らしく、綾部の吸っていた葉巻を西村が萩原に押しつけると、萩原はソファーに乗っかるように倒れる。お尻を突き出して痛がる芝居は萩原だけに許されたかっこう悪いのにかっこよく見えるポーズとして決まっている。
 自衛隊に入ってやり直したらどうだと西村は萩原にいい、昔の軍隊式を教え込む一連の流れも見逃せない。
 ソフトに傾いていたドラマは西村の演技できりっと様相を変える。
 そして変化はつづく。森本レオの演じる男にビルの取り壊しを知らされて立ち退きを命じられる。森本が現れる間際、萩原は屋上に置いた煙突つきの風呂にたまったお湯を床に撒く。なにげない所作。しかし春近いとはいえすっかり冷えているかもしれない風呂の水に手を入れることはふつうはしない。萩原の考えたことだろう、森本レオとも共演した「青春の蹉跌」のオープニングシーンでのローラースケートを履いて椅子やテーブルを並べていった姿を思いだす。あの場面も萩原の提案だったらしい。
 綾部たちを探して関係する人たちを巡る修。この回の脚本を書いた市川森一の夫人である柴田美保子が弁護士事務所の秘書として登場している。萩原は知らぬ存ぜずの態度を取る柴田に攻め寄り、やっちゃうぞと暴言を吐く。市川の脚本にはそんな言葉はない。
 ヤクザ事務所でも同じく行方は杳として知れない。いい声のヤクザである。つづくオカマバーのある通りでぞろぞろでてくるオカマたちの声もいい声ぞろいがつづいていく。予告編のナレーションにでてきたモナコが登場する。石田太郎が演じている。初代コロンボの声優だった小池朝雄亡き後を引き継いでいることでも知られる。この石田によるモナコは出番が少ないもののオカマバーで働く亨の気持ちを代弁して、ドラマに厚みを加えている。
 修と健太の三人で地震もスモッグのない美しい街に移り一からやり直したいと思った亨はその願いを叶えるためにバカな仕事に打ち込んでいる。
 汚れた都会に対して美しい田舎という幻想に亨はまだ執着している。
 水谷は男とたわむれて、冷たい夜の噴水に入って、アトラクションをこなす。客たちを楽しませるためクイズをいう。水谷の「傷だらけの天使」で培った鼻にかかったオカマ声が夜の街に響く。
 前回流れた「一人」がここで再び流れて、お馴染みの井上堯之バンドのサントラにつながっていく。
 萩原のモノローグがかぶさる。このセリフや調子は愛した女や世の中からこぼれてしまった男に向けていわれてきたものだ。ついにその調子はもっとも哀切のこもった響きで萩原にとってもっとも近かったものにつぶやかれるようになる。修と亨はともにベッドで寝ていたがそれはただの面白さを引き起こすだけの振る舞いであった。しかしここでふたりのあいだにあった恋と名付けたくなるような炎が灯るのを見る。
 つづくシーンは横浜の中華街である。「傷だらけの天使」で横浜がでてくるはことは初めて。中華料理屋の店主である、店のなかでもサングラスをはずさない中国語なまりのいかにもインチキ臭い男を「太陽にほえろ!」の刑事を演じた下川辰平が演じている。訪ねた萩原は綾部貴子の行方を訊く。探偵としての聞き込み役がこれまでいまひとつ面白くなかったのに、ここではまるで違うのは、修自身の身に迫った聞き込みだからである。下川は適当にあしらうが、そこに綾部貴子はいる。下川がいう、修は綾部さんのおもちゃの箱から落ちたなまりの兵隊さん、川に落ちた兵隊さんはこのまま流れていくだけ、綾部さん、遊びが過ぎたよ、と。脚本通りのセリフが下川の肉体を通して悲しみとおかしみを加えている。
 なまりの兵隊さんといわれた萩原はこれまで見られなかった新しいサングラスをしている。丸みのあるレンズデザインは先の下川の中国語からの連想のせいか、無国籍に見える。川に落ちた萩原はホーン・ユキから連絡をもらい、綾部貴子からの救いの手を受ける。
 女はこういうときつぶしがきく、田舎に帰って結婚するというホーン・ユキ。彼女は修に、クズで終わりたくなければ、横浜港から高飛びを狙う綾部についていくことよ、といわれる。
 演じている場所は新宿西口の地下へおりる階段。ここでロケは何度も行われている。またホーン・ユキとの別れのくだりは、修が愛した女との別れを過ぎらせる。この場面はそれらの単なるなぞりでなく名場面のひとつとなっている。
 綾部貴子とともにロシアにいくことにした修。そこに風邪を引いた亨がやって来る。冷たい噴水に飛び込んだことは明白である。風邪のせいであるが、亨の態度はいつもの修へのものと違う。修は亨をもてあましながらも亨を残して去っていく。これが亨生前最後の別れとなる場面。
 水谷は去る萩原を這って追いかけていく。階段を腹ばいで下り、床に寝転び、足で蹴って進む。初回となった「宝石泥棒」で亨はどうやって登場したかを思いだして欲しい。水谷は亨という人物に完全に乗り移っている。萩原が消えたあと、水谷はポケットから競馬の馬券を取りだして、これさえあたればあんなやついなくてもいいといい、ラジオ聞かなくゃと繰り返しながらペントハウスに戻っていく。
 横浜に向かうタクシーにいる修は途中で運転手に薬屋に寄って欲しいと告げ再びペントハウスに戻ることにする。運転手は「非常の街」で萩原に表彰状を渡した警官を演じていたのは同じ畠山麦。「秘密戦隊ゴレンジャー」のキレンジャーとして知られているが、若くして亡くなった惜しまれる俳優。無名だった苅谷俊介とともに、端役ながら複数回登場した数少ない俳優のひとり。
 萩原が下川を訪ねたところで最初のCMブレイクがあり、つづいて二度目のCMブレイクがある。残すは最後のセクションひとつ。およそ10分間。ここまでほんとうに無駄がない。CM明けはそろって、港の音から始まる。一度目のCM明けは呆然とする萩原の顔に消えたホーン・ユキより電話が入り、一人の行方がわかる。二度目のCM明けは港から始まり、岸田森がこれまで知っている姿とはまるで違う浮浪者の風貌で登場する。短くぼさぼさとなった髪は「金庫破り」で見せたカツラを取った姿である。スキンヘッドだった髪もずいぶんと伸びたものだ。港に西村晃が現れて、緊迫が高まる。一方薬を買ってもう一度ペントハウスに戻った萩原。亨を振り切ったときに被っていたフェドーラハットを被り、丸みのあるレンズのサングラスをして、ペントハウスへの階段をゆっくりと上ってくる。港に向かう時間もないのにわざわざ引き返してきたはず。しかし萩原の動きはやけに緩慢である。すでに間に合わなくなったわけではあるまい。しかしこの動きがつづく亨の死に遭遇したときの修の驚きを効果的にしている。
 ペントハウスのなかは地震のあとにもぬけになった綾部情報社のように散らかっている。綾部情報社は彼らが数々行ってきた悪行を隠したニセ帳簿や報告書の紙やファイルだった。対照的にペントハウスにあるのはヌード写真の切り抜きがあたり一面に散らばっている。当時人気だった全裸で巷間にリンゴを持ったヌード写真、麻田奈美の裸も見える。そこに毛布を頭から被った亨が倒れている。亨は死んでいた。亨の死にも驚くが、ヌード写真の切り抜きが散乱しているなかという設定が目に焼き付く。いったいなぜそんなものをばらまいたのか。なにかを探そうとしていたのか。それとも寂しくなってかき集めたのか。雑誌のヌードグラビアを見て自分を慰めるしかなかった時代であった。多くの亨と同じ貧しい若者たちは自分を重ねて見た。
 一方港には高飛びを狙う綾部貴子が現れる。修の姿を探しているようだ。西村晃がその隙に近寄ろうとする。そこに岸田森が新聞に隠した包丁を持ち阻止しようとする。ジャン・ギャバンの「望郷」が再現される。岸田森が提案したらしい。脚本では西村が修をわざと泳がせて、綾部とともに捕まえるつもりであったこと。岸田森はやって来た萩原を殺すつもりだったこと。自分の惚れた女といっしょに旅行などさせたくないというセリフや、萩原と自分との世代ギャップを嘆くところが書かれている。実際のドラマではそういった経緯は一切語らず「望郷」気取りの岸田森がかっこうつけようとして決まらない悲しみが表現されている。役者、監督、スタッフ、脚本ががっつり組み合い対決したことの記録が刻まれている。
 ペントハウス。サングラスをはずした萩原が死んだ亨を見ている。これまで何度もたくさんの死が描かれてきた。どれもあっけないほど簡単な死であった。修が愛したものはいつも唐突に亡くなる。修は亨を愛した。しかし彼は愛した亨を置いて旅立つことを選んだ。このままじゃ、共倒れになってしまうから、と。
 あっけない死はいつも次の場面では新聞の死亡記事であったり、骨箱として登場した。亡くなったあとのことは余韻としてあるだけであった。しかしここで初めて死のあとが丹念に描かれる。それも誰も見たことのなかった「傷だらけの天使」らしい、「傷だらけの天使」でしかありえない展開を見せていく。修は亨を風呂に入れて、女を抱かしてやるからと、ヌードグラビアを胸に貼っていく。「ゴキブリ死ぬ死ぬ」の看板とともに風呂に入った亨の姿が脳裏を過ぎる。
 森本レオが再び現れて、立ち退きを告げる。短いながら登場する彼があの声で立ち退きを告げるのはとても耳に残る。ゆらぎを含んだやさしいあの声が厳しい最後通告を穏やかに告げる。ヤクザまがいの恫喝ではない。
 つづく場面で三里塚などの機動隊との住人たちとの闘争がインサートされていく。「傷だらけの天使」は政治の季節と呼ばれた60年代の終わりのドラマではない。政治とは無縁な空気に包まれたシラケの時代と呼ばれた真っ最中に生まれている。修や亨も政治のことなどまるで関係なく生きている。脚本にこのインサートはなく、工藤栄一によるものだと市川はいっている。
 ペントハウスからの立ち退きに突如として時代の風刺が込められる。初期では怪しさ満点だった綾部貴子は回を重ねるごとに穏やかになっている。悪のなかの悪と呼ばれてもやや無理がある。ここでもやはり無理を感じなくない。
 闘争のインサートは、抵抗すれば壊されるということや、祭りの終わりを意味していると工藤は語っている。
「でてけってよ……でてけってよ」という萩原の声がかぶさる。
 作り手たちの意図は別にして、この番組が土曜の10時から追い立てられるようにも聞こえてくる。
 萩原は死んだ水谷を背負い、まだまだ墓場にはいかないからよ、川崎のトルコでも、新宿のトルコでも、オレ、今日はおごっちゃう、と叫ぶ。作り手たちの思惑をすべて無にしてしまうセリフだ。だから「傷だらけの天使」。政治信条や学生運動の挫折よりももっと高いところにいる。
 そしてあの「一人」が流れだす。場所は東京湾の埋め立て地「夢の島」。ゴミでできた島。そこにリヤカーを引いて萩原は現れる。乗っているのはドラム缶。そのなかにいるのは毛布に包まれて頭部だけ見えている水谷。萩原はトルコにいったのだろうか。水谷は女を抱いたのだろうか。
 萩原はドラム缶を転がし、佇んだあと、振り切るようにしてリヤカーを引いて走りだす。亨を振り切るだけか。それとももっと大勢のものか。これまでの思い出も全部か。萩原がリヤカーを引く姿はみっともないのにかっこいい。肩を上下に振り、がに股で走り、顔は泣いているのか笑っているのかわからない。「傷だらけの天使」というタイトルにこれほどふさわしい終わりかたはない。
 

 ここでドラマは終わる。しかし最後にもうひとつカットがある。撮影風景が映り、カットという声で撮影が終わり、萩原がロケバスに乗って去ろうとする。撮影されているのは萩原と水谷と岸田森が港で戯れているところである。岸田森は浮浪者然とした姿をしている。そこに萩原と水谷は登場していない。おそらく最後に付け加えるため、いまでいうなら特典ボーナスとしての遊びで撮られたものだ。あまりにも切ないラストの印象を少し和らげるために撮られたのだろう。これはすべてつくりごとなのですよ、ということかもしれない。ふつうなら興を覚ます、よけいなものになりかねない。しかし全部つくりごとといわれても覚めない夢を「傷だらけの天使」はつくりだしていた。すでにもう四十年あまりも。まだこの夢はつづくだろう。そしてもうこんなドラマは二度と生まれないだろう。