0 プロローグにオープニングタイトルの謎を

  ーーカットされた牛乳ぶっかけは射精を意味していたのか

「傷だらけの天使」が好きだ。
 放送されたのが1974年の秋だから、もうかれこれ、40年近くこのドラマの魅力に取り憑かれていることになる。
 萩原健一ことショーケンのこのドラマを見たことがない人は多くても、テーマ曲とオープニングタイトルのことは知っている人は少なくないはずだ。
 革ジャンにゴーグル、白いヘッドフォンをつけて、胸には新聞のナプキンをつけた萩原は、食卓に乱雑に並んだクラッカー、トマト、ソーセージ、コンビーフ、そして牛乳を次々と食べていく。そんな映像によるオープニングタイトルをテレビの懐かしのドラマ特集は必ず流すといっていい定番中の定番だ。そしてそこに流れるのは、当時でも時代遅れだった60年代初めのロックンロールをベースにしたテーマ曲である。その曲はその後もCMなどで何度となく使われている。
 このドラマは視聴率も悪く、打ち切りも覚悟の状態で最終回までなんとか持ちこたえた苦難の番組であった。しかしその後再放送を繰り返すたびに人気は上がり、いまでは70年代を代表するテレビドラマの一本として語り継がれるようになっている。
 また「相棒」で再びブレイクした水谷豊の最初の人気のきっかけはこのドラマである。水谷は開始前に降板した俳優の代役として起用されて、うまくいかなければいつでも殺す予定という首の皮一枚での抜擢だった。水谷は期待に十分に応えたばかりか、すでに大スターだった萩原を追い越すほどの人気を番組中盤に得る。さらにその後主演した映画「青春の殺人者」では演技者としても高く評価されていく。
 萩原はこのドラマの前にすでに「太陽にほえろ!」「青春の蹉跌」と役者としての実力を十分に示していたが、水谷の人気が放送中にあがっていくことに相当なプレッシャーを感じるようになっていく。萩原は水谷に食われまいとそれまで以上の実力を示し、次なる演技の味を生みだしていく。そしてこのドラマのあとに出演した倉本聰の「前略おふくろ様」でさらに大きな存在となっていく。
 ふたりにとってもこのドラマの存在がいかに大きく、実りあるものであったかは、その後ふたりがテレビや映画で一切共演することがないことからも、生半可な企画や内容では「傷だらけの天使」を超えることができないと誰よりもよくわかっているからだろう。
 萩原と水谷は探偵事務所の下働きをするチンピラ同然の若者で、雇う側である探偵事務所の綾部情報社(探偵事務所と語る場面もある)のボスとナンバーツーを岸田今日子と岸田森という、私生活ではいとこ同士であったふたりのベテラン俳優が演じている。(残念ながら岸田森は83年に、岸田今日子は06年に故人となった)。
 このドラマがその後のドラマや映画などに与えた影響は計り知れないほど大きく、「太陽にほえろ!」で萩原の降板したあと刑事役として抜擢されて人気者となった松田優作の代表作のひとつといえるテレビドラマ「探偵物語」には「傷だらけの天使」をどのように応用したかというアイデアがうかがえるし、類似の映画やドラマも多くつくられている。
 また続編に対する声も絶えずあり、近年も萩原主演で映画として登場するという話も具体的にあったりしたが、まだ実現には至っていない。企画を進めたひとりで、ドラマのメインライターで設定をつくった市川森一が故人となってしまったことも大きい。
 ここではドラマ全26話を順番に追いながら、その紹介と魅力と見どころ、印象的な場面やセリフ、時代背景などを記していく。なぜこのドラマが伝説となっていまも語り継がれるようになっているのかを探り、またドラマの結末上なかなか困難である続編の可能性についても考察していく。キャストスタッフの残した証言を参考にもするが、あくまで基本は全26話の本編にこだわり、映っているものやセリフ、音楽から読み解き、ドラマの全貌に迫りたい。
 最近の萩原健一と「相棒」しか知らない水谷豊の、若き日の姿に興味を持った人や、「仁義なき戦い」の深作欣二や日活ロマンポルノの神代辰巳が監督したテレビ作品を見てみようと思った映画マニアが、26本のドラマのどの回を見ればいいかのガイドを目指し、そして若い頃に見たままで記憶はあいまいになった、元傷だらけの天使たちにとっても、新しい発見と再会があるようにと願う。

 まず挨拶がわりとして、最初にあのオープニングタイトルのことについて語ることにしよう。
 恩地日出夫が監督し、のちに監督としてもデビューする木村大作が手持ちカメラで撮影している。寝て、起きて、冷蔵庫から取りだした食べ物を食卓でむさぼり食う。食べることはセックスを暗示させる意図もあったという証言する関係者は多い。恩地は(シリーズ全体が)どんな内容のものになっても日常の場面を撮っておけば間に合うだろうということで撮ったと語っている。
 最後に萩原が、飲んでいた牛乳をカメラに向けてぶっかけたところで終わるのだが、スポンサーが行儀が悪いとクレームをつけてカットされてしまい、その手前で終わるものが使用された。後年懐かしのテレビドラマ特集で幻の未放映カットが放送されている。牛乳=射精の連想に結びついたこともあり、セックス説を裏付ける根拠となっている。
 しかし萩原は、そんなことは後付けだと08年にだした自伝にて一蹴している。時間がないから朝飯を食うという設定の元でただ闇雲にやっただけらしい。
 再見すると確かに時間のなかった様子はうかがえる。最初にタイトルが被る暗転は画面の端は透けて見えている。エフェクト処理でなく、その場にあったなにかで適当に覆ったように見える。暗転が終わると現れる萩原もゴーグルのなかで目を開けていて、そのあと目を閉じて、また目を開ける。寝ている設定としてはちょっと杜撰である。
 その真相はともかく、今回再見していてもっとべつの気になることがあった。萩原は最初にベッドから立ち上がると、冷蔵庫に向かうように誰もが記憶しているが、じつは真っ先にすることは、左手の壁にある柱時計の文字盤のガラス蓋をバタンと閉じるのだ。動作だけ見ると、目覚まし時計のボタンを押して止めるようにも見えるが、柱時計にそんなな機能はない。いったいどういう意図が込められていたのか。何度見てもわからない。たまたま開いてたから気になっていたという他愛ない理由かもしれないが。そのあとにつづく食べる場面が印象に残り過ぎるのか、誰もが忘れてしまうほどのことだけど。
 萩原が食べる様子を恩地のテイストだけで撮るのはどうかという判断もあり、当初和田誠によるイラストを挿入する予定だった。イラストは現実に描かれている。
 しかし加納典明が担当したモノクロスチールを4カ所に3-4枚の連続インサートに変更になった。和田誠のタッチがドラマの雰囲気にも合わなかったのだろう。写真を細かく見ていくと、萩原が叫ぶように口を開いた横に写るのは都屋かつ江のように見える。三話目の「ヌードダンサーに愛の炎を」からのものだろうか。また二話目の「悪女にトラック一杯の幸せを」にでた緑魔子と思える姿もあり、それは萩原とキスをしようとしているカットにも。この写真の選択は、どれもよく、登場するリズムや順番タイミングも音楽に合い、萩原の魅力が散りばめられている。
 オープニングタイトルは後年物真似芸やコントなどで何度となく披露された。
 ゴーグルはアイマスクがわりなのだろうが、レンズはよく見ると透明である。ヘッドフォンはもちろん耳栓代わりであるのだろう。でもゴーグルをつけて寝るなんて痛くないか? 
 そんなツッコミなど受け付けないほど、このタイトルは当時の視聴者に新鮮な驚きを与えたことは間違いない。
 ただ食べ散らかすだけなのに、どうして萩原はあれほどかっこういいのか。新聞をナプキン代わりにして、牛乳の蓋を瓶をかじって開けることは誰もが真似出来るのに、そのかっこうよさは誰も真似が出来ない。なぜなのか。これからその謎の一端に少しでも触れられればとドラマ本編を丹念に見ていこうと思う。
 さあ、時代は1974年10月5日の土曜日の10時にーー。
  

1 宝石泥棒に子守歌を

  ーー「仁義なき戦い」にでたかったショーケンと深作欣二によるコラボ


 GSのスターだった萩原健一はGSブームが去ったあと、同じGSのスターだった沢田研二らとともにPYGを結成したが成功に至らず、沢田はソロ歌手、萩原は役者として活動を始めた。萩原は現代的で不良性のある、やさしき若者というキャラクターで、テレビドラマや映画にでていった。
 なかでも石原裕次郎主演の「太陽にほえろ」での新人刑事役は、それまでになかった刑事らしからぬ長髪とファッショナブルな服装で話題を呼び、また登場一年後にあっけなく殉職してしまったことで、強烈な印象を視聴者に残した。

 またその死に方が刑事として犯人を捕まえるための名誉の殉職でなく、立ち小便をしているときに通りすがりの物取りに腹を刺されて死ぬという無様もので、最後につぶやく「おかあちゃん、熱いな……」のなんともいたたまれない台詞もあって忘れがたいものになった。この死に方は降板を希望した萩原自身の発案だったという。
「傷だらけの天使」はその殉職による幕切れから一年少し経った翌年の秋より始まった。その間萩原主演のテレビドラマは他にも何本もあったが、「太陽」と同局の日本テレビが製作した点、また萩原が東宝で「青春の蹉跌」に主演し、うるさ筋の間でも高く評価されつつあったことからも、これまで以上の大きな期待が寄せられていた。
 さらにもうひとつ、「太陽にほえろ!」のテーマ曲が夏にシングルで発売されて、インストゥルメンタルにも関わらずヒットしていたこと。その曲を演奏作曲している井上堯之バンドが「太陽」につづき「傷だらけの天使」のテーマ並びに音楽を担当することも話題であった。
 物語はペントハウスに住むカネのないチンピラの若者が探偵事務所の下請けをやらされていてやばい世界に顔を突っ込んでいくというのがベースである。
 当時の視聴者、そしていまも、探偵と聞いて思い浮かぶのは、行方不明者捜しとか、浮気調査とかいったものだろうし、どちらかというと正義に近い立場に身を置くものだろう。
 しかし「傷だらけの天使」は悪いやつらのほうに重心がかかっているドラマで、主人公たちも自分たちが正義であるとはつゆほども思っていないし、社会よりも道徳よりももっと自分勝手が優先する心情の持ち主だった。
 第一話で描かれる探偵事務所、綾部情報社からの萩原への依頼は、宝石を奪って警察に捕まったあと逃げろというもの。当時の視聴者は探偵のイメージから遠い依頼内容とまた下請けとはいえ、ただのチンピラである萩原の姿とのギャップに面食らった。
 その上ドラマの語り口がこのドラマに初めて接する視聴者にまるでやさしくない。いまならというか、第一回のドラマであるなら、まず二人が探偵の下請けをやっていて、やばいけれど、そこそこ危ない程度の仕事をやっているといった前段があり、今回は「宝石泥棒」という犯罪すれすれ、いや犯罪そのものをやらされることになるといった流れが用意されるだろう。二人がどういうキャラクターであるかが理解されて、萩原の目線に立ってドラマを見ていく準備ができていく。
 ところがそんなことはやらない。ドラマは宝石を奪って逃げて捕まえられるという最初のCMブレイクまで、ノンストップな勢いで進んでいく。
 それもそのはず、この第一話はもともと最初に放送するために撮られていたものではない。視聴者がドラマの前提に馴染む、ちょうどいい塩梅だった頃にぶつける仕様になっていた。
 ドラマとしての出来がよかったからか、まったくべつの事情かは諸説あるけれど、このドラマの人気がよくなかったのは、不親切ぶりと、不良性きわまる設定が、視聴者を選んでしまったからではないか。
 土曜の夜10時スタートのこのドラマは、金曜夜8時スタートの「太陽」ができなかった大人の表現、つまり性的なものや公序良俗にひっかかる可能性のある内容を盛り込むことが可能ではあった。萩原は「太陽」での不満をここで解消しようと目論んでいた。
 1974年の秋、高度経済成長からドル切り下げ、石油ショックとなって、世の中の経済や勢いに陰りが生まれた頃。もちろんまだ休みではなかった土曜の夜10時は無礼講が許される始まりの時間でもあった。
 けれどやっぱり見るものを選ぶ。そうとうに選ぶ。大人は見ない。こんなバカバカしいめちゃくちゃなものは見てられないと思ったはずだ。では、若者は見ていたか? 一家に一台だったテレビを二十歳前後の若者が占領することは難しいだろうし、またそれよりも年下である子供はもっと難しい。当時13歳だった筆者が見るこことが出来たのは、嫁いだ姉が残していったテレビが自分の部屋にお下がりとしてあったからだった。
 だからこのドラマを当時リアルタイムで見ていたのは、よほどの萩原ファンだった若い女たちと、名だたる映画監督が演出するという、この番組のもうひとつの売りだった点を番組の紹介で目敏く見つけた一部の映画マニアが主だったはずだ。
 その映画監督、第一バッターとして登場したのが深作欣二。当時「仁義なき戦い」五部作を撮り終えた直後。このあと「仁義の墓場」や「県警対組織暴力」といった秀作群を次々発表していく狭間に撮られているのが本作である。それまでにも深作はテレビドラマの監督をしていたが、もっとも旬であるときに違いない。萩原は「青春の蹉跌」の監督に当初深作にラブコールを送り、 ぼくが「仁義なき戦い」にでていないのは信じられない、なぜ呼んでくれなかったのかとも深作にいったらしい。そんな状況である。面白くならないわけがない。
 冒頭街並みと走る電車からカメラはパンして、ビルの屋上にある煙突のついた簡易の風呂桶から立ち上がり、フンドシを巻く萩原をとらえるところから始まり、宝石泥棒犯として警察に捕まり移送中に、何者かが運転するトラックの暴走によって横転させられるパトカーから脱出するまでの最初のシークエンスは何度見ても一気に見せられてしまう。
 テーマ音楽と劇伴を巧みに使い分けて、静と動のエピソードを緩急つけながら語っていく演出とカメラワーク。深作は何台ものカメラを回して、ときには自分ででも回すという演出術を持つ。とりわけ、萩原が宝石強盗として警察官に追われる歩道橋でのチェイスは秀逸だ。歩道橋の階段を横からとらえ、警察官が整列するように並んで追いかけていく。おかしさが入り交じった美しさといいたくなる描写は、「太陽」にもなければ、他のテレビドラマでもなかなかお目にかかれないものでまさに映画だった。
 その頃の萩原は、限りない可能性を秘めた子供で、動物的なカンを持っていたと共演の岸田今日子は語っている。そういった頭で考えるよりも体が反応したかのような演技をする萩原に呼応するように、演出も引っ張られるように動物的な勢いで進んでいく。段取りよくひとつずつわかりやすく進んでいくようなスタイルを好む人々には受け入れがたかったのだろう。
 ただ、この頃のテレビの夜10時以降というのは大人の時間帯でもあり、猥雑なお色気と残酷なアクションも珍しくなかったから、「傷だらけの天使」がとりわけ特異で規格からはみだしていたというわけではない。
 宝石泥棒から宝石を奪って国外に持ちだす組織にいる運び屋たち。彼らは女の体のなかに宝石を仕込んで運んでいる。仕込まれる役目を負った外人女は、巨額の価値のある宝石をいくつでみ詰め込むことができる部分を直接見せるかわりに、胸がはちきれんばかりの小さなビキニをつけて、なぜか日本人の濡れ場が映る映画を楽しんで見ている。
 また番組終了一年半後に、萩本欽一の奥さん役として登場し、すっかりいい奥さんに変身してしまう真屋順子は、バストトップもチラ見せするほどの熱演で課長と団地で真昼の情事を熱演する。
 宝石泥棒の追っかけに、カーアクションにお色気、さらに萩原がバイクで走るといった見せ場も用意されている。たった45分ほどのドラマにこれでもかとばかりあふれている。
 製作者や萩原はこの回を真っ先に視聴者に見せて、びっくりさせてやりたかったんだろう。
 しかしこの回はその後多くの人に語られていく「傷だらけの天使」とはこれだ! というものではない。ドラマの骨格や展開は他の回の好作と変わらないがドラマの持つ空気感が違う。
「傷だらけの天使」といえば、水谷豊の「アニキー」であったりするあの二人のやり取りは、ほとんどでてこない。水谷の芝居はそれまでの彼の手持ちの演技であり「傷だらけの天使」で起きる演劇的化学反応の爆発はまだない。なによりもあの鼻にかかった発声法、みんなが真似した亨はまだいない。
 一方萩原は滑舌など無視した聞き取りづらいしゃべりと、突然怒鳴ったかと思えばつぶやくようにいう上下の激しい発声がすでに十分ある。しかしバイクに乗ってテーマ曲をでたらめにスキャットする、ある種視聴者へのサービスともいえるカットはこの回限り。萩原はシリーズ中何度も鼻歌を口ずさむが主人公が登場するドラマのテーマ曲を歌うというわかりやすい選曲を一度も取らない。ここにいる萩原はドラマの主人公というより、でラマを楽しんだ中学生が自転車にでも乗りながらいい気になっている姿みたいだ。
 西村晃演じる刑事の登場もレギュラーのように見えて、このあとの登板は七回目と最終回のみだ。さらに同じくときおりでてきてもいいはずの古道具屋で、かつ広島ヤクザであるという金子信夫はこの回限り。「仁義なき戦い」のレギュラーだった金子のほうは深作つながりによるゲストという側面もあったのだろうが、ふつうのドラマとしてお気軽につくって視聴者の馴染み感をあおるなら何度も使えたはずだ。「傷だらけの天使」の後番組として用意された(放送曜日と時間帯は変更になる)「俺たちの勲章」では主役の松田優作と中村雅俊の周辺には刑事であるふたりの立ち寄る飲み屋が配されていて佐藤蛾二郎などが出演していた。「傷だらけの天使」に欠けていたものを補ったのだろう。
 この回はスケジュールも大幅に超過し、当然予算も大幅に増え、予定したキャストにカネが回らなくなったというプロデューサーのひとりだった磯野理の証言もある。この回に限らず予算の超過は最初の八回で十五回分を使い果たし、残りの十八回を十三回分で撮り切る、つまり30分ドラマの予算で一時間ドラマを撮らざるを得ないことになったらしい。
 しかしよけいなサブキャラを配さず、主要なキャストのみでドラマをつくったことは、かえって萩原と水谷の芝居を濃密にし他のドラマにない味わいを生み、このドラマを孤高の位置に押し上げるのに一役買っている。
 この回を「傷だらけの天使」と勘違いしてはいけない。しかしこの回は「傷だらけの天使」を代表する一作であることは間違いない。
 警察から逃走した萩原演じるところの木暮修は、水谷豊演じる乾亨に電話をして、宝石を奪って逃げるときにぶつかってケガをさせた子供の容体を訊く。修は運び屋たちに拉致されるが、再び逃亡して、子供のところに向かう。子供は子役だった頃の坂上忍が演じている。母は真屋順子である。
 修がなぜ子供のことを気にかけたかは、彼も三歳の子を持っているからだった。粗暴でありながら心が優しい。まさに傷だらけの天使である。仕事を依頼した探偵事務所の綾部情報社は子供を誘拐して、運び屋たちの仕業と見せかけ、脱線した修を彼らの描いた絵にもう一度引き戻す。修は亨とともに子供を救うため、宝石の運び屋たちのところに乗り込んでいく。運び屋たちがいる場所は廃墟のボウリング場で、修と亨はバイクに二人乗りをして、ボウリング場の階段を走る……。物語の結末はここでは書かない。これから初めてドラマを見ようとする人のために。そして以前見たまますっかり忘れている人にもう一度見てもらうために。萩原のバイクが最後にどこへ向かうかは見てのお楽しみだ。
 以下ランダムに語れば、萩原はバイクにまたがりテーマ曲を口ずさむが、夏の撮影と思われるこの頃すでにテーマ曲があったのか。どうやらこの場面はアフレコである。放送直前に萩原が入れたのだろう。それとも萩原が元メロを作曲していたのでは? と夢想したくなるほどよくはまっている。あのテーマ曲といえば、あの、トマトやコンビーフを萩原がゴーグルとヘッドフォンをつけて食べるオープニングタイトルが思い浮かぶだろうが、ここのバイク疾走の、でたらめなスキャットを忘れてはいけない。
「生きるか死ぬかの瀬戸際にかっこなんかかまってられるか」
 これは萩原がドラマ一発目に吐くセリフ。対する水谷はそれを受けて、シェークスピアのセリフをもじってかっこつけようとするのだがラグビー(アメリカンフットボール?)のボールにつまずいてしまう。
 このくだりは重要な伏線としてラストに活かされるが、すでにこのドラマシリーズの結末を知っているものにとっては、心がじんとならざるを得ないくだりでもある。またシェークスピアからの引用は最終回の冒頭でももう一度行われている。
 この回は芝英三郎が書いている。メインライターで番組立ち上げから関わりドラマの設定をつくった市川森一は、このセリフを覚えていたのだろうか、それともただの偶然だったのだろうか。
 水谷の起用は他の俳優を降板させたため。売れっ子だったその俳優のスケジュールがあまりに過酷であったからだ。水谷は萩原らスタッフの身近でうろうろしていた一人だった。予定していた俳優に較べると、ときおりドラマに顔をだしている若手俳優としか知られてなかった水谷。萩原の相手として半年間起用し続けるのはたいへんな冒険だったらしい。なにしろ降板させた俳優で番組のセールスをスポンサーにしていただけに、失敗すればプロデューサーの首が飛ぶのは必至の状況だった。
 うまくいかなければ殺せばいいと思っていたと市川森一は語っていた。 
 おそらくこのセリフのやり取りや設定が最終回の伏線であるともいえるのはただの偶然だ。しかし屋上に置かれた簡易風呂といい揃っている。もうひとつよけいなことをいえば、宝石を隠すための道具として使われるボールもこの回限り。けれど萩原の「青春の蹉跌」において、彼はアメリカンフットボールの選手だった。あのボールはもしかして……などと考えてみたり。

 

2 悪女にトラック一杯の幸せを

  ーー悪女は萩原と水谷を両脇に抱いてベッドで眠った


 タイトルにある「トラック一杯の幸せ」とは、当時人気DJだった落合恵子の「スプーン一杯の幸せ」。またそこから派生したアグネス・チャンの「ポケット一杯の幸せ」などからつけられたものだろう。「……に××を」と統一されたタイトルスタイルは当初の脚本にはなく番組スタートとともに整えられていった。おそらく「……に××を」に似たタイトルがスタート前にありドラマの内容を視聴者にわかりやすくかつスタイリッシュに伝えるためにプロデューサーが選んだものと思われる。
「傷だらけの天使」は、萩原であり、水谷豊であり、岸田森であり、岸田今日子であり、これらどの顔ぶれがかけても成立しないものである。しかしそれはドラマが続くなかで生まれてくるアンサンブルにあり、スタートした時点にそれらはまだない。
 この回は夏服を着ていることと、オープニングタイトルを撮った恩地日出夫が監督していたこと、さらに萩原の髪型が前回よりやや短く、まだ散髪仕立てのように整っていることから、最初に撮られたことは間違いない。ゆえに「傷だらけの天使」になっていく原石が無防備に転がっている。
 その原石のひとつは萩原が持つ天性の資質である。
 今回冒頭、このメシを食ったらもう終わりだよという水谷に、だったらおまえ食うな、これはみんなオレが買ったものだからといってメシを食いながら見せる、萩原の壊れかけたスロットマシーンの窓のような目の演技。
 依頼人である緑魔子を襲った連中に車のドアで手を痛めつけられるときに発声する、チンチンに毛が生えている大人がだすとは思えない悲鳴と、なにも知らないくせにあっけなく白状するという情けないのかバカなのかわからない豹変ぶり。
 前者については珍しくないけれど、後者については脇のチンピラならまだしも、主演クラスの二枚目俳優がやる芝居でちゃんとさまになるのは萩原以外いないという独壇場だった。
 そしてとどめは悪女・緑魔子に恋心を持った萩原が、トラック一杯の盗品である銀食器を質屋に二束三文で売ったあと、おまえにはもっといいものを買ってやりたいといって、今度はエナメルの靴を買ってやるからよ、というくだり。なぜ靴なのかは、河原の上を裸足になってまで逃げようとした緑を萩原が車でのろのろと追いかけたシークエンスがあったからなのだが、そこにひとことさらに付け加えられるのは、「(靴なら)みんな持っているからよ」というセリフ。
 萩原以前に好きという告白を好きの言葉を使わずに、しかもはにかみながら、自信ともはったりとも違う、心のぶれとともに演じることができる俳優はいなかったというような演出家・蜷川幸雄の指摘がある。
 まさにここはその萩原だけの萩原の前に萩原なし、萩原の後に萩原なし、の烙印。「みんな持っているからよ」の唐突に付け加えられるこのセリフはアドリブではないのだろうか。残された他の回の脚本から推理すれば、萩原はセリフの核を拾い出して、独自のリズムで言葉を並べていくことが多いので、今回も脚本にあったとしても、同様と思われる。

 またこのセリフが吐かれるのは質屋をでたあとの、どこにもであるような道路を歩きながらである点が、非日常的なドラマのなかで行われることでぐっとリアルさを増している。
「傷だらけの天使」のほんとうの魅力のひとつとは、こういったところにもある。まず萩原以外にできない芝居と空気感があって、そこに吸い寄せられるように、シナリオライターの市川森一が、監督の深作が、神代辰巳が、音楽の井上堯之バンドが、水谷が、岸田がと集まったのだ。そしてその萩原に対して彼らは触発されて対抗し闘いを挑んだ記録が全26回に収められている。

 原石といえば、井上堯之バンドの曲たちも忘れてはいけない。井上堯之バンドは萩原沢田とともにPYGを組む、GSの盟友である井上と大野克夫らが中心になっている。彼らはソロとなった沢田のバックバンドとして活動することからスタートし、「太陽にほえろ!」のサウンドトラックを萩原の推薦で提供した。
「太陽」「傷だらけの天使」のテーマはともにキーボードの大野克夫が作曲していて、バンド名となっているリーダーの井上ではない。ギタリストである井上は作曲をしないのかといえば派手なリードよりも堅実なサイドに持ち味のある演奏と同じく、地味ながら心に迫る曲を書く。あのお馴染みのテーマで語られることが多い「傷だらけの天使」だが、「傷だらけの天使」の忘れられなさは、井上が書いた脇の劇伴に追うところも大きい。
 井上は萩原の演技者としての資質を決定づける「青春の蹉跌」の音楽を全曲担当し、萩原の揺れ動く内面を鮮やかにかつ哀切を伴いながら描くことにも成功している。
 大野が陽なら、井上は陰を紡ぎだす。井上だけなら、このドラマは暗く重苦しい物になったかもしれないが、大野の書いたテーマやそのバリエーションの派手さがドラマに活気と軽みを与えることに成功し、かつ井上のメロディがドラマの持つ突飛ともいえる設定と展開を下支えしている。
 前回の冒頭からCMブレイクまでの緩急つけた演出は、監督が違っても今回も健在である。ひとつの要因に用意された音楽の粒が揃っていたことも大きい。派手な曲につづいてミディアム、そしてバラードと続いていく流れは、萩原がどれだけ無茶をやっても、うまくおさめてくれるバラードの存在により、彼のよるべなきやるせない心が伝わってきて、視聴者のシンパシーをつかみ取ることに成功している。
 今回の物語は依頼人の緑魔子につきまとう、しつこい恋人をガードしてくれというもの。明日からの食料がなくなった萩原はやばい仕事には手をだしたくないといいながらも美女という誘いに引き寄せられて仕事を引き受ける。緑魔子は商社がステンレスの食器として輸入した高価な銀食器を奪っている。つきまとうのはそのときの仲間である。緑は萩原を利用して銀食器をカネにすることを考えていることが次第に明らかになっていく。
 緑魔子は日本人とは思えない美しい顔立ちとスリムな容姿である。しかし同時期テレビにあふれだしたティーンアイドルの歌手しか知らない十代の子供だった筆者にとっては敷居の高い女性であり、その美しさはよくわからなかった。
 緑はすぱっと脱いで、ぼかしが入るほどの惜しげなさで裸体を見せて、萩原と水谷とともにベッドで眠る。最初は萩原とだけベッドイン。隣で水谷はオープニングタイトルで萩原がつけているあの白いヘッドフォンをしてなにも聞いてないよと顔を横に向けている。しかしヘッドフォンは無音であったことがわかり、緑が水谷を同じベッドに招いていく。萩原は水谷をベッドから下ろそうと緑に気づかれないように押したり叩いたりするのだが、緑は萩原と水谷を両脇に抱えて眠るのである。
 緑の裸は、華奢な肢体ゆえにかスケベさはあまりない。はたしてどれだけ当時の色気目当てで見ていた茶の間のオッサンを喜ばせたのかわからない。
 しかしきっと緑は、萩原のドラマだ、下手なことはできない、全身全霊で役に打ち込むという気概を持って望んだのだろう。少なくともドラマを見ていたものは、緑の持つ妖しく儚い面立ちと立ち姿を忘れられなかったはずだ。
 美しいとえば、岸田今日子の美しさも他にない。憧れの萩原と共演できると岸田は出演依頼に喜んだという談話が残っている。それはたぶん、萩原が「青春の蹉跌」の前にでた、初めての主演映画である「約束」で、彼よりも年上となる岸恵子を相手に印象的なラブシーンを演じたこともあるのだろう。岸田今日子も萩原の恋の相手となるのではないかと期待があったのかも? ところがフタを開けると、前回金子信夫扮する古道具屋に向かって、あのクソババア、なんでもしゃべりやがって、と萩原は岸田に悪態をついている。岸田今日子はショックだったという。なにしろ彼女は子供を宿したときの胎教に、萩原がいたGSグループ、テンプターズを聞いていたほどのファンだったのだ。
 しかし緑同様岸田の美しさを理解するには年輪がいる。筆者は萩原のいう、クソババアにくすりと笑う。
 岸田演じる綾部貴子は綾部情報社を名乗り、社会の暗部にするりと手を入れて、匂い立つような香水の香りとともに、生々しいカネや欲望を奪い取る。優雅で気品あり、瀟洒で悪趣味すれすれのセンスを全身どころか情報社の隅々までを覆い尽くした上に、自分が登場するときには怪しげな音楽を自らプレイヤーにかけて現れる女。
 こんなハードルの高い女はなかなか理解できない。けれどこいつのような女がいるのが世の中のほんとうなのだろうと思わせる。
「太陽」で萩原の上司であった石原裕次郎も、往年の青春スターで、瘦せていて、足がさっと長かった頃を知らないものにとっては、太った色黒のオッサンでしかなかったけれど、石原は萩原の刑事としてのれっきとしたボスであり、敵ではない。
 しかし岸田は萩原を愛しながらも利用してカネを得ることを生業としている。
 視聴者にとって、そして萩原にとっては、身内であるよりも敵であるような存在だ。それを「クソババア」というひとことで、イヤミなくまたかわいく直截に吐き捨てる萩原のすばらしさ。
 とはいえ、以上のようなことをドラマからすぐに受け取って言語化するのは、のちのちのことであり、ドラマを見ているものは、ただ二人の得体の知れなさに翻弄されるだけだ。
 そこで用意されているのが次のセリフのやりとりだ。時価三億円となる銀食器を奪って転売するために用心棒として雇った萩原にその売りさばきのからくりを緑は話す。萩原は感心したのち、あんた、大学出? と訊く。萩原は中学しかでていない。頭のいいことをいう人はみんな大学出であるという理屈は冗談でなく、当時としてはよくある考えだった。
「青春の蹉跌」で大学どころか医学部にいる医者の卵を演じた萩原はどう見たって頭がいいようには見えない。それを神代演出の見事な絡めてで、リアルさに転じたところが演技者萩原の凄かったところだったが、チンピラのほうが板についていることは確かである。
 大学、中卒のやり取りは、水谷をくわえて、銀食器の転売を始めたくだりで、再度登場する。今度は水谷が、アニキは中学卒業だから、とうらやましがる。「あいつも中学だけは卒業させてやりたかったな」と萩原はパシリに向かう水谷の背中につぶやく。
 下には下がいるのだ。
 大卒はまだ珍しくなくても高卒はいくらでもいた世の中で中卒は希有な存在。さらにその下がいて、そいつはまるで悩む様子もなく、腹は減るけれどニカニカ笑って楽しげにしている。
 視聴者の多くは彼らよりは学歴は上だったろう。しかし二人の屈託ない様子に学歴社会の軋轢にいる窮屈な心情を解き放つ楽園性を見たのだろう。
 そして美女か悪女か悪魔か貴族かわからない女たちに対する混乱を、しょせんオレたちは中卒、中学中退という頭のせいに、世の中を渡っていく心の落としどころを学んだはずだ。
 のちにこのドラマは再放送で人気を得ていく。当時の再放送は平日四時が定番で、それらをクラブに入らない文化系帰宅部が急いで学校から帰って見た。彼らは高校生だったり、中学生だったわけだから、萩原や水谷が自分たちとほとんど学歴は変わらないという点でシンパシーを感じたはずだ。受験戦争が盛んだった70年代、高校生は大学になど行かずに、このまま辞めて、中卒を名乗って、萩原のように自由気ままに生きたかった。同じく再放送される青春学園ドラマの多くは学校幻想を持ち、先生をヒーローとして描いていた。しかし「傷だらけの天使」は学校も先生もでてこないのに、彼らの心情にずっとリアルに響いたのだった。
 萩原の着る衣装は菊池武男のBIGIが提供している。衣装はまだまだ役者の自前か撮影所の衣装部が用意してる時代にきわめて珍しいことだった。BIGIの季節外れの売れ残りを買い取ったと萩原はいっている。
 革ジャンやコートはもちろん高く、簡単に買えるものではない。萩原はシャツの下に下着を見せる着こなしをしていた。「仁義なき戦い」でも菅原文太や松方弘樹たちもしている。当時下着のシャツは襟ぐりの広いものやランニングシャツが主であった。萩原の真似をしたい日本中の学校にいる傷だらけの天使たちは(筆者も含めて)萩原と同じ下着を学生服のカッターシャツの下に着ようとした。しかしなかなかシャツは見つからず、あきらめた天使たちはTシャツで代用した。そういう時代だったのだ、1970年代半ばは。ポパイもホットドッドプレスも創刊するにはあと数年待たなければならない。


3 ヌードダンサーに愛の炎を

 ーーボカシ入りのストリップが土曜の夜10時に流れた
 
 今回は第一回「宝石泥棒」と同じ深作欣二による監督作。二作をひとりの監督が同時期に撮るのはテレビドラマ製作の通例である。
 シリーズ撮影初期に撮られたのだろう、前回同様萩原の髪は散髪仕立てのにおいがあり、また番宣として使われたり、翌75年に発売されるサントラのLPレコードでも使われている、ペントハウスでの萩原、水谷、両岸田のスチールはこの回に撮られたもの。ヤクザ事務所に乗り込んだ萩原と岸田森は顔中をケガして血に汚れて、服はずたずたになっている。岸田今日子はシリーズ中最初で最後のペントハウスへの登場であった。
 番組のポスター、テーマ曲シングル盤、そして日本テレビの出版部よりだされた唯一のノベライズ本の写真は、白いスーツに赤いバラを手に持つ萩原である。これは撮影開始前に撮影されたのだろう。
「宝石泥棒」同様、今回も萩原は徹底的に痛みつけられて血まみれズタボロとなり、まさに傷だらけ。白スーツに赤いバラの萩原はどちらかというと怪しい天使といった雰囲気を醸しだしている。
 傷だらけとなった萩原はハンパない汚れっぷり。赤い血、かさぶた、破れたシャツ、おまけに「宝石泥棒」ではパトカーでの連行時に鼻にティッシュまで突っ込んでいるみっともなさ。
 深作の「仁義なき戦い」では珍しくもない出で立ちであり、萩原もそれを望んでやったのだろう。深作は、萩原を松田優作とともに「仁義なき戦い」になぜ呼ばなかったのか、そうすれば歴史に残っていたのにということを述べている。
 しかしひどい姿であるのに萩原のかっこいいこと。かっこわるいのにかっこいいという表現。「傷だらけの天使」というタイトルが象徴するように、傷と天使という相反するものをひとつにしてしまう萩原だけにできたマジック。深作は知っていたのだろう、痛めつければ痛めつけるほど萩原は輝きだすことを。
 で、この深作監督作。「宝石泥棒」と同じ監督が撮ったとは思えないほどタッチが違う。「宝石」が動なら、こちらは「静」。しかし落ち着いたタッチかと勘違いしてはいけない。冒頭から髷を結った腰巻き姿のストリップダンサーが乱舞し、次から次へと裸が飛びだしていくのだから、「静」のイメージからは遠い。
「宝石泥棒」は井上堯之バンドの曲を矢継ぎ早につないでいくのに対して、こちらはある一瞬の決定的なところまでは井上堯之バンドの曲は一切鳴らず、かかるのは当時のヒット歌謡曲のオンパレード。キャンディーズの「危ない土曜日」に、ぴんから兄弟「女の道」に、リンリンランの「恋のインディアン人形」。それらは文字通りストリップのBGMとして流れていく。
 浅草ロック座で撮影された同作は本物のストリップショーを前にして、楽屋、舞台袖、客席といったところで、萩原たちは芝居をする。当時の視聴者はストリップ小屋にいるような臨場感を味わい、土曜の夜の束の間の解放を、目と体で味わっただろう。
 またそのストリッパーとして現れる今回のゲスト中山麻里の裸体は、豊穣で均整の取れたスタイル。そして美しい面立ちとくれば、そんじょそこらのストリップ小屋では見られない極上品だ。
 中山麻里はバレーボールドラマの「サインはV」で知られることになった女優だが、この頃に「週刊プレイボーイ」でヌードを披露しているものの、裸体によるお茶の間登場は衝撃的であった。「サインはV」以降目立った活躍のなかった中山麻里がいきなり裸でしかも当時の日本人があまり見たことなかった立派なプロポーションで踊ってくれるとは!
 その衝撃たるや、女には興味のない顔をしている、綾部情報社のナンバーツーの岸田森までもが、クールな相貌を変えて、仕事の種に撮った中山麻里のヌード写真をスーツのポケットに隠してしまうほどである。
 おそらく当時の視聴者がよく知らずにつけたテレビで中山のストリップを見た瞬間、こんなことがテレビで起きていいのかと目を疑い、なにかわからぬまま、見続けて、翌々日会社や学校にいって、土曜日の夜にものすごいテレビをやっていたんだけど、おまえ見たかといった人は少なくないはずだ。

 そのひとりが自分だったと筆者はいいたいけれど、この回リアルタイムでは見なかった。悲しいかな中学生だった筆者は、10月の19日あったこの放送を、月末にある中間試験の準備のために見なかった。
 土曜の夜であっても許されぬほどの露出だったのだ。その後の再放送がたいがい夕方四時だったときに放送されるわけがない。今作は常に未放送となり、のちに再放送枠が深夜になった時期に筆者は初めて見ることになる。
「傷だらけの天使」がとりわけ熱く語られる要因のひとつに、今作をリアルタイムで見たかどうかや、あの幻の作をついに見たということも含まれていることもあるだろう。録画やソフトやネットが揃ったいまではなかなか起きえない、あの頃のドラマだけができたイベント性のひとつだといえる。
 ではどういうところが「静」かといえば、資産家の家出娘であるストリッパーの中山をヒモである元ヤクザと別れさせるために、萩原と水谷は浅草ロック座に綾部情報社より送り込まれた。
 元ヤクザを演じているのは室田日出男。深作組からの登板。同作出演後である翌年萩原主演の「前略おふくろ様」でおなじく東映の悪役だった川谷拓三とともに、茶の間の人気者になっていく。しかしこのときはまだ、テレビではときどき見かけるヤクザ役のひとりでしかない。
 そんな男に萩原と水谷は心酔していき、果てはいっしょにドスを手にして殴り込みに乗り込んでいくまでとなる。ふたりが乗り込むことを決めたとき、先に書いた井上堯之バンドの曲が初めて流れるのだ。待ってました! といいたくなる瞬間。まさにストリッパーの御開帳がここでも起きたというタイミングだった。
 派手でにぎやかなストリップの裏で繰り広げられていく男の絆と、女との断ち切れぬ愛が、ろうそくの火のようにはかなく揺れながら描かれていく。またそこに笑いの要素がアクセントとなって盛り込まれて、飽きる間もない。やはり映画監督深作欣二の底力か。
 もうひとつ、「静」たるゆえんは、ソフトフォーカスをかけたレンズによる撮影にある。「宝石泥棒」で見られたカメラをぶん回しているかのような動きのあるカメラは、今回は夢でも見ているようなあるいは走馬燈のなかから世界を見つめているような、甘く儚い色合いによる画面をつくっていく。
 ストリップ小屋のなかでちょっと使われるときはやや違和感があるものの、その後に室田と萩原が殴り込みに向かう浅草仲見世の通りから殴り込みをかけるまでの使われ方は、ハードで厳しい現実をストリップのスポットライトやご開帳が見せてくれる観音の灯火のように変えていく。
 そしてラスト近く再びのソフトフォーカスの画面構成が、現実と幻を紙一重にして、この回を土曜の夜の一瞬を永遠にしてくれる。ここと殴り込みの場面だけでソフトフォーカスはよかったかもしれないが、やや違和感ととられるかもしれない最初の使いがあってこそ、くどくなく、これ見よがしでない、本物の幻をつくりだしている。
 のちに字の知らない萩原と水谷がみょうちくりんな当て字で調査報告を書くのだが、「傷だらけの天使」初登場となる漢字ネタがでる。萩原は知らないのでなく、よく知っている上に、漢字の本質まで射抜くセリフを吐く。
 ストリップ小屋のやり手ばばあとして登場する都屋かつ江が、努力の努ってどう書くんだいと訊いて、女に又と書いて、力を書いて、しめるんです、と艶小咄のような答を返す。
 しめるんですとちょっと恥ずかしげににやけた調子で萩原はいう。艶小咄にあるイヤらしさや粋さはない。しかししゃれたかっこよさが漲っている。
 萩原は木枯らし紋次郎バリか、萩原が出演した市川崑の「股旅」のような姿となって、中山麻里を手込めにしようとして、ホテルに誘いだすことに成功する。そこでいう「努力の努だよ」というセリフは先のくだりをさらに増幅させる笑いにつながり、また結局失敗してしまい。ホテルで待っているのは、努力の字を訊ねた張本人の都屋かつ江だったというオチになる。
 萩原の顔は笑い、くしゃくしゃとなり、あるいは眉毛をずり下げ、また舌で自分の頬を押すなど、せわしなく変わっていく。
 ジェットコースターに乗ったような高低差に満ちあふれた台詞回しにくわえて、顔の演技があり、しなやかでありながら不格好な動きがある。
 萩原はガキか大人かわからないどころか、都会に紛れ込んだ、けだものであり、またペットのように愛くるしさも持ち合わせている。
 劇団ひまわり出身で芸歴はその時点で萩原とほとんど同じといっていいくらい長かった水谷だが、いつ首が切られるかわからなかったかもしれない危うい身である。レギュラーとして残るため、萩原とどう関わり、自分をアピールしていくかを相当に考えたはずだ。
 水谷は黙っていれば陰性なイメージを醸しだし、影ある不良役や犯罪者を演じていた。水谷が萩原に挑むためにはそういった役柄では太刀打ちできないと早くに気づいたのだろう。水谷は白い歯を見せて、笑い、ころころと表情を変化させる。
 ストリッパーたちに、童貞でしょ、とからかわれる彼は違うよといいながら、鼻にかかった甘え声でなついていく。そして今回のラスト近くで、童貞を卒業したという幻想とおぼしき出来事を自慢げに萩原に告げるとき、水谷は鼻声でまた話しだす。我々がよく知るあのアキラがそこにいるけれど、まだまだ遠い。ここまでの水谷は他にいくらでもいる若手無名俳優に首をすげ替えても「傷だらけの天使」の屋台骨は揺るがないくらいしかの力量しか示せていない。
 萩原は殴り込みに勇躍でかけるものの、なにもできず、バケモノ屋敷から飛び出す腰抜けのアンチャンみたいな悲鳴を上げて逃げていく。この芝居も萩原だけの特許品に見える。「動きながら声を出せないといけないし、声を出しながら怖がらないといけないし」と後年深作は「バトル・ロワイアル」でのアクション演出指導で語っている。萩原にも同じようなことがあったのかもしれない。おとなしい俳優だったら、あの勢いにぶっ飛ばされてしまうと萩原の当時の芝居についてもいってる。まさに並の俳優なら太刀打ちできない勢いにあふれていた。
 さて役者としてはずっと先輩である岸田森は白い顔で不適な笑みを浮かべて、萩原にどう対抗していったか? 「宝石泥棒」で萩原が泥棒のときにケガさせてしまった子供のために依頼人を裏切る行動にでたように、岸田森はボスである岸田今日子に下衆で恥ずかしい男の欲情を見破られたことへの反発心と羞恥から岸田今日子を裏切り暴走を始める。
 そのとき岸田森は萩原に、デュポンのライターを進展する。ライターはその後重要な役目としてでてくるわけではない。このあたりは岸田森の萩原への岸田森なりの挑戦だったのではないかというように夢想したくなる。
 岸田森は胃下垂で食事のあとには必ず胃薬を飲む。今回初めてその様子がでてくるけれど、まださりげなく、胃薬であるかどうかは視聴者には伝えられていない。これももしかすると岸田森がオリジナルとして付け加えた、辰巳五郎という男の輪郭だったのかもしれない。
 さっき岸田森の顔を白といったけれど、なぜそういったかは萩原の顔があまりにも黒く日焼けしているからもある。たまたまなのか、いやふたりのことだから、そんなことはない。萩原が天然ともいえる資質で黒くなったとしたとしても、岸田森は思ったはずだ、よし、おまえが黒くなれば、ぼくはどこまでも白くなるよ、と。岸田森の出演した映画「血を吸う薔薇」で演じた吸血鬼を役作りにしたとも本人がのちに語っている。
 もちろん岸田今日子はなにもしなくても透き通るように白い。この黒と白が雇い人と雇われ人として、持ちつ持たれつ、ときに裏切り手を組み合っていく。ここにも傷だらけの天使というタイトルに秘められた相反するもの同士の調和が潜んでいる。
 脚本は市川森一。「怪獣ブースカ」でデビューし「ウルトラセブン」で頭角を現した彼は大人のドラマに軸足を移して、まだまだ売り出し中といえる頃だった。あんたはうまくないけど、ハートはある、と深作にいわれて、ありがとうございましたと直立不動で答えていたとプロデューサーのひとり磯野理はのちに語っている。

 

4 港町に男涙のブルースを

  ーー軍歌と浪曲子守歌が流れるシュールな一作


 今回の監督は神代辰巳。深作欣二とともに、「傷だらけの天使」の映画監督起用の目玉のひとりであり、また日本映画でも、マニアのあいだで深作とともに人気を二分した日活ロマンポルノの鬼才である。さらに初の日活ロマンポルノ外の仕事が、萩原主演の東宝・文芸作品「青春の蹉跌」だったわけで、そういった事情をよく知るものの期待が高まらないわけがない。
 筆者は再見するまで今作の印象はそれほどよくないものだった。もしこの作品から「傷だらけの天使」に接した人がいたら、暗くてよくわからない、やけに裸と生々しいセックスシーンがでてきて、後味がよくなかったという感想を持ったかもしれない。そしてこのシリーズの広大な魅力に気づかないまま見ることから離れていったとしても仕方ないだろう。それくらい他の作品群と一線を画す出来であることは確かである。
 しかし今回久しぶりに見た筆者は、初見だった十代からも四十年近く経っているせいか、ここにある世界の奥が見据えることができた。作品というのは見るとき、年齢、環境によって、語りかけるものが違うものだとつくづく思った。
 まずこの回は前回同様BGMの井上堯之バンド率が低く、かわりに鳴るのは三味線が奏でる軍歌「戦友」であったり、「海ゆかば」であったり、萩原の鼻歌による、逃げた女房にゃ未練はないがの歌詞で知られる「浪曲子守歌」であったりする。前回の歌謡曲や演歌がストリップでのBGMだったわかりやすさに較べると、たとえ三味線で滑稽味をつけた軍歌であってたとしても、暗く重苦しい。
 オープニングタイトルにあるスタッフクレジットには選曲というのがあり、同作は鈴木清司が初期八作(予算が十五作分かかったところ)で関わっている。鈴木は日本では珍しかった選曲という作業を独立した形で請け負った第一人者として知られる。ドラマを初期(1-13話)中期(14-22話)後期(23-26話)として分けるとすれば、鈴木がいなくなって以降特に中期からの選曲に疑問を抱くときが何度となくある。「傷だらけの天使」の初期の素晴らしさは鈴木に追うところも大きかったのかもしれない。
 しかしその鈴木の多彩な選曲のセンスを持ってしても、いつもの切れ味が乏しい。いや演出の意図に答えすぎてしまって、お茶の間のセンスを飛び越えてしまっているのかもしれない。 
 今回「浪曲子守歌」を萩原は歌い、竹竿を手にして棒高跳びをする。物語とは直接関係ないカットとして挟み込まれている。萩原の心的状態を描いているのだろうが、テレビ視聴者にとっては難解に映り、気楽な気持ちで見ているものにとってやさしくない。
 萩原による「浪曲子守歌」は「青春の蹉跌」でシラケた医学生である主人公が自身の上昇が常に内的には下降していくありさまを「エンヤトット」という民謡のフレーズを繰り返して表現したところや、同じく同映画で唐突に挟み込まれる「ゼロックス」のCMインサートを想起させる。萩原のコアなファンにはたまらないものであっても、どういうわけかあまり真似したいと思わない空回りがある。同じ萩原の鼻歌である「たまらん節」がドラマを語るときに何度となくいわれるのに対して、「浪曲子守歌」のことをいう人に筆者は会ったことがない。
 また千葉の鴨川グランドホテルとのタイアップでその周辺でロケされたにもかかわらず、日本海を思わせるような荒涼とした寂しさが全体を覆っていて、いちおう若者向けにつくられていたはずのドラマのイメージを裏切っている。
 そしてこれはこの回の責任ではないのだが、深作監督作の仕上がりの遅れがそうなったのだろう、前回ストリッパーに対して、今回ヌードスタジオが舞台と似たものが連続している。ゲストである池部良はヌードモデルのヒモのような存在といった点でも似てしまっている。とはいえ再放送で見ていたものは前回が未放送だったから関係ないといえば関係ないのだけど。
 さらに45分の短い時間にたっぷりと押し込めたせいか、ややあっけなく見えるラストの印象もプラスに働きにくかったとも思われる。
 でも先の「浪曲子守歌」を切るなどして時間に余裕をつくり、ラストに時間を与えたところで、やや説明臭くなるだけなので、これは尻切れトンボではない。
 というようにいえるには長い時間が筆者には必要だった。それはどういった点かといえば、このときまだ三十年前だったあの戦争を引きずり、その落とし前をつけるべく、寡黙に、また饒舌に、池部良が登場することをどれだけ理解できるかにかかっていたからだ。

「昭和残侠伝」にもでた池部の立ち回りは美しい。前回の室田日出男は池部良の次の世代にあたるヤクザを演じている。親分子分など関係ない、やるかやられるかの仁義なきヤクザを生き抜いたひとりである。立ち回りの美しさは嘘であると暴いた張本人である。
 池部良は仁義をきちんと守り、やるなら自分もその前で自らにけじめをつける筋の通った男である。
 バーでミルクをいつも注文する殺し屋たちの横で、池部は酒臭い息を吐きながら、ヘミングウェーを語り、萩原は困った顔で(酒が)臭いんです、としか反応できない。戦前世代と戦後世代が同じバーの止まり木で肩を並べている虚しい瞬間だ。
 そして池部がなぜ自分がここにいて、なにを目指しいるかを雨の海岸で語る。かつて日本兵だったとき池部と仲間を裏切った上官がまた大きな裏切りをしていることを知った、池部はあのときのように黙って見過ごすわけにいかないと憤っている。
 萩原はその間濡れた服を脱ぎ、シャツをしぼり、靴に入った雨水を捨てている。黙って感心して聞くわけでなく、さりとて聞いてないわけでもない。このカットの芝居は萩原の創案だろうか。神代辰巳ことクマさんは、ショーケン、なにかない? とヤニで真っ黒な歯を見せては萩原に聞いたという。きっとここでもクマさんに訊かれて、萩原は天才的な勘で、服を脱いでドボドボと水を滴らせたのだろう。この対比はなかなかわかりにくい。戦後派である萩原に感情移入して見るものには、軍歌も池部も、臭いだけとしか映らない。物語の意図通りであるが、意図が効き過ぎてしまっている。 
 冒頭のセックスシーンから裸で外に逃げだし海に向かう萩原。廃屋でのセックスシーンやちんどん屋の歩く通り。魚を売る露店を歩く萩原。ここにはテレビドラマにはない、映画の空気感が満ちていて、テレビサイズからこぼれ落ちてしまっている。視聴者には鬱陶しいほどかもしれない。
 萩原の天才性をもうひとつ付け加えるとすれば、バーでミルクしか注文しない、当時よく見た悪役だった二見忠男たちを、両脇で羽交い締めして肩を掴み、足をバーのカウンターに載せて、店のなかをいったり来たりする芝居。文章ではうまく伝わらないだろうから、必ず見て欲しい。弱いのだか強いのだかわからないケンカ流儀が炸裂している。
 港に届く冷凍エビを船から持ち出す連中を突き止めるため、港町に滞在することになるのが今回の萩原の仕事。舞台は千葉の田舎町。裏寂れたヌードスタジオ。裸を惜しげなく見せる荒砂ゆき。前回の中山麻里に較べては悪いプロポーションだけれど、これは日本。あの頃温泉街にあったヌードスタジオという名で、客にヌード撮影させる風俗店の雰囲気を伝えてくれる。
 そんなことは一地方に住む、中坊だった筆者には伝わらない。今度の裸はあまりパッとしないなとしか。だから作品への印象はいっこうによくならない。
 けれど時間が経ち、元日本兵だった池部良も故人となったいまでは違う。あの頃の自分は気がつかなかったが、確かに日本には戦争を引きずる人たちがひっそりと隠れて生きていて、昭和元禄と浮き世の享楽に踊る国民の姿を苦々しい思いで見つめていたのだということにようやく気がつく。

 池部が、着流しを着て、女の持つようなかわいい傘を差す、アンバランスな立ち姿に彼の取り残された悲しみがわかる。池部を裏切った上官は萩原たちが追う冷凍エビの盗難に関わっていて、池部は上官に向かっていく……。
 筆者が萩原のいた場所から池部のいた場所に歳とともに移りつつあるからだろうか。  

 池部の気持ちが理解できなければ、池部の女である荒砂ゆきの最後の行動も唐突にしか映らない。
 今作は味わい深い作品であるが、最初に見たり、早いうちに見ないほうがいいかもしれない。もし見るなら六話目の神代作品のあとに見ることをお薦めする。六話目も相当な問題作でもあるが、こちらのほうは子供が主人公なのでまだわかりやすい。そこで神代演出に慣れれば敷居の高さもだいぶ違ったものになるだろう。
 視聴率は初回から回を追うごとに落ち、神代作品でどん底になったというような証言を萩原はのちにしている。六話目であるのかこちらであるのかわからない。しかし一般的にはどちらもあまり受けないように思われる。
 お茶の間レベルのテレビサイズから逸脱した語り口と世界、俳優たちの聞き取りにくいセリフ、暴力と性にあふれた描写、悪ふざけに取られかねないやり取り、そしてアンチ・ハッピーエンドの多さ(「宝石泥棒」だけは珍しくハッピーエンドよりである)。一般の人気を獲得できずにひたすら突っ走っていく。修正しようにももう何話も撮り終えてしまっているから。 
 先行作品であった深作恩地監督作を経て、今回の神代版は萩原たちが何本かドラマの世界を十全に体に染みこませたあとに撮影されている。
 このあと登場するもう一本の神代作品が、今作より先行して撮影されたのかあとだったのかわからない。しかしもう一本の神代作品で爆発した萩原演じる修と、水谷演じる亨の関係にはこれまで見られなかったものが加味されている。
 港町に先乗りしている萩原が水谷に電話をしたとき、水谷は岸田今日子の真似をする。萩原は、オカマか、と罵る。港町にあとからやって来た水谷はじゃれつく犬の一歩手前のような動きを見せて萩原に接する。それまで罵倒されて叩かれるだけだった水谷は海岸で萩原を反対にこづき返し、また萩原は怒るわけでなく、またこづき返して、ふたりはそれを繰り返して砂浜に倒れていく。
 もうただのアニキと子分ではないふたりになりつつある。我々の知っている亨が少しずつ顔を見せ始めている。萩原に対抗していくための武器を見つけつつあるといってもいい。
 萩原は萩原で、水谷の口に指を突っ込み、頬を内側から引っ張りポンと音を鳴らして見せる。自分の口に指を突っ込み、頬をポンと鳴らす遊びをしたことがない子供時代を過ごした人はいないだろう。けれどそれを他人の口で鳴らしてみせる早業をついぞお目にかかったことない。萩原のお茶目でいたずら心あふれる動きも動きなら、それを受けてちゃんと頬を鳴らす水谷の動きのよさ。もうふたりの芝居は横山やすしと西川きよしの漫才級に息が合ってしまっている。
 岸田森は正真正銘のアニキとして、ロケが終われば萩原と水谷を連れて飲みに行き、そこで演技談義をしたらしい。
 クールで計算高くずるがしこい岸田森こと辰巳五郎はじつはスケベであるのは、前回ストリップ劇場で姿を見せていた。むっつりスケベという言葉があるように、これはそれほど驚くことではない。
 しかし今回岸田森はスケベであることを綾部情報社の電話番で秘書のホーン・ユキに指摘されたあと、プールサイドのシャワーの水管のようなものを鉄棒がわりにして懸垂して見せ、ホーン・ユキの腰に後ろから足でぶら下がる姿を見せる。
 綾部貴子の前では常にロボットのように冷血な態度を見せる辰巳五郎は今回事務所をでて鴨川グランドホテルにいるため、羽を伸ばしているのだろう。岸田森はそうして萩原に挑みつづける。
 ここでこれまでの回では触れられなかった点を述べておく。萩原は死んだ奥さんの田舎に三歳になる子供を預けていて、名前は健太という、子持ちのチンピラである。
 これは「傷だらけの天使」を語るときに亨が中学をでていないことと同様忘れてはいけない設定のひとつだ。
 高倉健の健に、菅原文太の太をもらって健太という名であることの由来は、深作欣二の子供で、その後映画監督になる深作健太にあることはいまでは知られている。
 なぜ萩原を子持ちにしたのかはわからないが、そのことで萩原をただのチンピラでなくしたいとしたからという憶測は簡単にできる。
 自分が子持ちであることは「宝石泥棒」で語られるし、またゆえに彼はケガした子供にパトカーのおもちゃを逃げながら届けるわけだ。そして今回それ以来初めて自分が子持ちであることをこの回で語っている。「宝石泥棒」よりも有効な使われ方はされていない一種のシャレのような扱いである。でも、高倉健の健に、菅原文太の太をもらって健太といいながらはにかみいう萩原のお決まりのセリフは、水谷のいうアニキとともに、このドラマでしか見られない味となり、少しずつボディブローされていくことになる。
 原石が次なる形に姿を見せていくさまを見る楽しみもある。


5 殺人者に怒りの雷光を

  ーー水谷豊がレギュラーの座を獲得する瞬間

 この回は「ゴキブリ死ぬ死ぬ」のでてくる回として人気が高い。「ゴキブリ死ぬ死ぬ」とはゴキブリ駆除の簡易箱形殺虫道具「ゴキブリホイホイ」の類似商品として登場する。「ホイホイ」はこの頃に発売されて爆発的に売れていた。ホイホイという言葉のコミカルさが受けて人気となったわけだが、本質は「死ぬ死ぬ」の言い換えといってもいいだろう。脚本の市川森一は「ホイホイ」という言葉の偽善性に噛みついたのだ。
 萩原は探偵の下請けで稼いだ20万円を一晩で使い尽くして、夜明けの町を「浪曲子守歌」を歌いながら帰っていく。途中薬局の前に置かれた「ゴキブリ死ぬ死ぬ」のCMにでているホットパンツにタンクトップのおねーちゃんの人型看板を本物? と勘違いしたみたいに、住まいのペントハウスまでお持ち帰りしてしまう。
 萩原からギャラを一銭もわけてもらえず、ご機嫌斜めな水谷は「ゴキブリ死ぬ死ぬ」のねーちゃんが、タレント稼業の裏で20万円でやらせてくれるというダチからの話をする。萩原はねーちゃんと寝るため20万円を稼ぐべく、ヤバい仕事にまた乗りだすことになる。綾部情報社からの仕事のギャラは「宝石泥棒」は30万円だったが、20万円という額がシリーズ通じて多い。大卒の初任給が7万だった時代である。100万という大台には乗らないが、まあそこそこあるという感じであろうか。
 のちに発売される市川森一の作品を集めた「傷だらけの天使」のシナリオ集では市川の二話目として書かれている。「ストリッパー」は先に放送されているが、シナリオ集では次に置かれている。故人となった市川に真意を訊くことはかなわないが、この回は物語上二回目として置かれていい位置として判断したのだろう。その通り、話としの出来もいい。
「ゴキブリ死ぬ死ぬ」はただのCMパロディでなく、ゴキブリのように扱われて、無慈悲に殺されていく、綾部情報社の探偵たちであり、また名もなきカネのない若者たちのことでもある。
 CMにでて笑みを浮かべるタンクトップのおーねーちゃんがじつはスケベの顔を隠し持っているように、人は見かけによらない一面を持っている。探偵とはつまりそこに手を入れるものたちであることを市川はちゃんと描こうとしている。
 クールで計算高くてずるがしこい辰巳五郎はあろうことか猫が大の苦手で、猫を前にすると情けなくなるほどの醜態を見せる。それはただ笑いを誘うだけでなく、次の犯罪を誘発因子となっていく。
 修は修で雷に弱く、子供のように雷にヘソが狙われると信じている。このくだりもただのおかしさや視聴者への親しみを誘う媚びとならず、物語の解決へとつながる重要なキーとして働いていく。
 修たちのいる探偵社は怪しげでリアルさに欠けるかもしれないと市川は考えたのだろうか、修たち以外にも様々な若者が同様に働いているということをここで見せる。しかし彼らはゴキブリのように次々と消されていく。はたして誰がそんなことをしているのかとドラマへの興味は高まっていく。
 放送開始から視聴率は悪くなる一方だった。もしこの回がもっと早くに放送されていたら違っていたように筆者は思う。この回はわかりやすく、かつテーマ性を持っていた。大人も子供も楽しめる娯楽がほどよくあった。
 けれどそんな、たらればをしても仕方ない。早くも見切ってしまった視聴者のいないところで、今回を見たものは、やっぱりこのドラマは面白い、こんなドラマはいままで見たことないと土曜の夜が待ち遠しくて仕方なくなったはずだ。
 物語の構造だけが秀れていたわけではない。今回の監督は工藤栄一。深作や神代に較べると派手に語られないが、日本映画が落ち目になっていくこの時代に秀作を連発した東映の監督。光と影で画面を構成していく手腕が有名。今回においてもその持ち味を遺憾なく発揮している。テレビの演出は多く、萩原とは前年にあった主演ドラマ「風の中のあいつ」でもメガホンを取っている。しかし時代劇が多く、現代劇のテレビドラマは初であった。
 萩原と水谷と探偵社の仲間のひとりである松山省二が歩く夜の濡れた道路の美しさ。もちろんその美しさに対比して冒頭の青みがかかった渋谷の街並みがあってのこと。集団立ち回りも得意とした工藤演出は、仲間を殺されたのはヤクザのせいと思い込み、組に乗り込み派手な立ち回りをするなかで炸裂する。殴り込みに向かう彼らがバックに立つ、夜の看板は同じ頃に公開されたロバート・レッドフォードの「華麗なるギャツビー」のワンシーンも思いださせる。
 雷を怖がる萩原と連続殺人犯との対決は窓の向こうで光る雷雨をバックに繰り広げられていく。常に空間に奥行きを与える演出と構図は工藤の力。テレビにねじこまれた映画でなく、映画に犯されたテレビが美しくブラウン管を輝かせる。
 この回は「ゴキブリ死ぬ死ぬ」だけでなく、岸田森がヤクザの親分である加藤嘉に狡猾な取引を申し渡されて全面降伏をするときに、髪をすぽっと取り、坊主頭となって詫びをいれて、涙で陳謝することでも知られている。
 他の映画のために坊主頭となっていた岸田森はカツラでふだんの仕事をこなしていた。岸田森はテレビでそのことを映画の発表より先に披露したくなかったのだが、萩原がここはそうすべきだといったという。
 前回「港」で懸垂する辰巳五郎のキャラクターはますます壊れていくとともに、萩原だけでない、このドラマは岸田森がいるからさらに面白いと膝を打つことになっていく。
 先の夜の濡れた道路で岸田森は再び恐怖にひきつるがまるで歌舞伎役者のような動きではたと止まって事件の真相を導きだす。
 萩原は必殺のあの悲鳴で応じる。水谷は萩原の声も動きも真似しようにもできない。そこで生みだされるのはとことこと歩くぎこちない動き。萩原や水谷より先に役者として活躍している松山省二は化け猫フェイスとなって煩悶の芝居を見せる。松山は死に、残される探偵の下請けは萩原と水谷だけとなる。松山から萩原たちへ、次の芝居の次元に向けてバトンが手渡されるようだという思いを浮かべるのは闇に包まれながら濡れた道路の光りが美しすぎるからだろうか。
 松山と岸田森は円谷プロのウルトラシリーズで怪獣のでない恐怖と戦慄を堪能させてくれた「怪奇大作戦」のレギュラーだったし、市川も参加していた。猫の毒や、雷の恐怖を盛り込んだ市川は「怪奇大作戦」が思いにあったであろう。
 もうひとり探偵の下請けとして現れてサウナで虚しく殺される谷岡行二は同じ日本テレビの看板のひとつだった青春学園ドラマシリーズ「飛び出せ!青春」で生徒役を若者や子供たちに顔は知られている。そういった意味でもこの回はテレビ世代にやさしいつくりとなっていて、早くに放送されていたら「傷だらけの天使」は違ったものになっていたと同じ繰り言をまたしたくなってしまう。それくらいこの回は当時のテレビの標準値を押さえながら弾ける、宝の入ったびっくり箱のような作品なのだ。
 前回姿を見せなかった岸田今日子は足が悪く杖をついているという綾部貴子の得体の知れないところを時に激しい振る舞いと穏やかにやさしい言葉の響きで表現している。これまでも綾部貴子は杖をついて現れるが、ここで初めてその左足が不自由であることが強調されて描かれる。だから杖でテーブルを叩く仕草が生きていく。自由にならない体が怒りで思うように動かないかわりに怒りは杖の先に向かってテーブルを叩きつける。
 岸田今日子はその声でムーミンの声を演じている。アニメの声の持ち主が画面にいるキャラクターと違うのは珍しくなく、その事実を知ったときに誰もが驚く。岸田今日子とムーミンはウルトラマンの着ぐるみのなかに入っていた役者がウルトラセブンではウルトラ警備隊のひとりとしていたことが指摘されなければわからなかったように、永遠の謎になっても不思議のない乖離をしている。しかし岸田今日子はほんとうはやさしい。あの厚い唇は酸いも甘いもかぎわけた大人になってはたまらない色気を宿している。
 岸田森やホーン・ユキは内心でも態度としても探偵の下請けたちをゴキブリのように軽蔑している。しかし岸田今日子こと綾部貴子は彼らのことを自分の子供のように愛していることが、嘘偽りない態度と声色で語られる。だから修はこの稼業から足を洗いたいのに、岸田の前では借りてきた猫のようになり、宝石泥棒だって、今度の死ぬかもしれない謎の薬を飲むことも受け入れる。
 綾部貴子が登場するとき、いつもかけるあの音楽が仮になくても岸田今日子は素晴らしい。岸田今日子の黒いドレスが似合う立ち姿を杖で支えることで、彼女の語られない過去と隠された黒い仕事の数々の毒が垣間見える。(あの音楽「マヅルカ」は毎回流れたように思うが、じつはそれほど流れておらず、中期から後期にかけての頻度は低い。同じく萩原のあの健太命名の話も中期からは子持ちであるというだけで影を潜める。しかししつこんほど聞いたように思えるほど強烈な印象を残したのだろう。)
 ダメなら殺せばいいという危ういポジションであった水谷は、まさに今回他の仲間といっしょに消えていたかもしれない。市川はそのためにこの話の想を得たのかもしれない。しかし健闘する姿を実際の撮影現場で見たのか、噂で聞いたのか、水谷は死なず、これまで初めてといっていいような見せ場をこの回でいくつも与えられることになる。
 殺人者に怯えた水谷は酒に酔いゴミ箱をひっくり返してあげくに通行人を自分を殺しに来たと勘違いしてケンカをふっかける。おかしさと悲しさが入り交じる名場面。
 市川脚本では岸田今日子とホーン・ユキが怪しい関係ではないかと疑うところで、当たり前に「レズか」というところを、「ホモか」と間違えて、萩原に「ホモとレズの違いもわからないのか」と突っ込まれる。かくいう萩原もどっちがどっちがわからなくて、ホモか、と最後はいう。このあたりいまとなってはわかりにくいだろうけど、オカマは知られていても、ホモという言葉はまだ一般的でなく、かつレズはさらに知る人ぞ知るものだった。そんなことは知らずともここでふたりの掛け合いがますます冴えていくのがわかる。
 そして同じく脚本では萩原終わりでこの回を締めくくられていたのに、完成作は水谷の場面で終わり、またその内容は脚本にない。「ゴキブリ死ぬ死ぬ」のねーちゃんと屋上の風呂に入る水谷のストップモーションで終わる。
 これまですべての回がストップモーションで終わった「傷だらけの天使」だった。どの回も忘れがたい印象を見るものに焼き付けて余韻をもたらせてくれた。「傷だらけの天使」の魅力はこのラストのストップモーションにもあったといってもよく、番組のラストテーマタイトルともいえるそこを水谷がついに奪うことになる。あいつは面白いと視聴者に印象づけてしまう。これで水谷は番組の途中で死ぬことはもうないだろうという証明に判子がつかれた瞬間といっても過言ではない。


6 草原に黒い十字架を

  ーー貧しいオカマはクラシックをBGMに湖でツレションをする


 問題作である。と同時に「傷だらけの天使」を代表する名作のひとつでもある。
 監督は神代辰巳。「港町」に顔をだしたシュールさは控えられている。しかし挑戦的ともいえる作品の要求に応えるための演出の手綱は緩まない。
 そのひとつとして、井上堯之バンドの楽曲はまったく使われていない。すべてクラシック。井上たちのメロディは「傷だらけの天使」のもうひとつの主役であったことは確か。 

これまでも「ヌードダンサー」で歌謡曲に半分乗っ取られたことはあったが、全編しかもふつうじゃ、あの二人に似合わないと思えるクラシックが流れて、それが見事にはまっている。選曲の鈴木清司が選んだとしても、そうする何かが神代の演出に潜んでいたのだろう。
 今回物語に登場する「6月のマドンナ」という、母のない子供が盗みだす絵画のイメージと、絵画のある美術館の佇まいに合うBGMとしてまず、クラシックは流れる。ストリップ小屋には歌謡曲や演歌であると同じ使われ方といっていい。
 しかし後半裏寂れた田舎町を背景にしても、ヴィヴァルディの交響曲が流れつづける。美しい田園風景ではない。日本の淋しげな、ちょっと体裁を整えたら時代劇にでも使えそうな、なにもない景色や、寒々しい水をたたえている湖にかぶさっていくのである。
 萩原と水谷、そして絵画を盗んだ女の子は歩く。走る。自転車に乗る。乳母車に乗る。そこに優雅な宮廷音楽が奏でられる。萩原と水谷が湖に向かって立ちションをするときにまで流れている。曲のイメージを裏切るおこないの数々。それがことごとくはまっている。

 今回岸田今日子の登場は声のみ。それはこれまでにもあったからよしとしよう。代わりにあの「マヅルカ」の怪しげな歌は鳴るので、不在を十分に埋めてくれる。
 井上堯之バンドの曲、岸田今日子、この大切なふたつを欠いてるのに、見事に「傷だらけの天使」となっている。それは少しずつ顔をだしつつあった萩原・水谷による修と亨のコンビのやり取りが最初の完成を迎えているからだ。
「6月のマドンナ」を展示する美術館に守衛のひとりとして入り込んだ亨は、絵画泥棒に狙われる前に偽物にすり替える役をふられた修を夜の美術館に招き入れる。
 修は窓から忍び込む前に、急にもよおしたと、窓縁で外に向かっておしっこをする。泥棒が本職でなくイヤイヤながらの役割であることを笑いとともに押しつけなく見せる萩原のこれはきっとアドリブ?

 ふたりが盗みだす前にこの絵に母の面影を見たナツメという赤いオーバーオールを着た少女は、バカな修たちの裏をかいて、まんまと盗みだすことに成功する。
 ナツメが怪しいと見たふたりは、空き地に見窄らしい聖堂のような家を建てたナツメの基地に向かう。
 新人さんね、とからかわれて、ポマード臭いとこけにされつづける亨は、貧しいオカマと修にいわれてしまう。
 貧しいオカマ!
 ついにここで亨のキャラクターがわかりやすく完成する。オカマや童貞とさんざん蔑まされていたところに、貧しいがついたとき、水谷の持つ陰性が正の輝きに変わる。萩原に対抗したか、引きつけられたか、なにをいわれてもニカニカと笑い、しかしずるがしこいところは修以上である亨は、貧しいといわれてもまったく動じるところがない。
 修は絵画泥棒として「宝石泥棒」につづき指名手配の犯人になり、「宝石泥棒」でも使われた指名手配犯人の写真として新聞に載る。手配写真史上最高の顔といってもいい、ひきつってるのか嘆いているのか笑っているのかわからない白い歯を見せる修。亨は自分も犯人として新聞に載ってないと嫉妬する。
 おまえも悪いことしたら仲間に入れてやるといわれた亨は、自転車泥棒をする。水谷は黄色いシャツに赤と白のサスペンダーをしている。そのサスペンダーを自転車に引っかけて、店の前に止まった自転車を奪い去る。オープニングテーマで見せた萩原の超絶技、瓶を加えて紙の蓋を開けるーーに匹敵するチンピラ技が炸裂する。これまでそんな風に自転車を盗む人は見たこともない。水谷のアドリブなのか萩原たちとのミーティングか。それを受けていう萩原のセリフがまたいい。悪いことをするといってやってきたことといえばたかが自転車泥棒かとバカにする。そこまでならただのドラマのセリフ。萩原はいう、同じ盗るなら、オレの乗る自転車と、いっしょに逃げてるナツメちゃんの乗る子供用の自転車と、おまえの乗る婦人用と三台盗んで来い。
 婦人用の自転車!
 萩原とナツメは自転車に乗り、盗んだ絵画を前に乗せて走る。そのあとを水谷が追いかけてついていく。水谷は自転車の後部座席に後ろ座りになんとか乗る。
 多くの「傷だらけの天使」ファンは桃源郷を見た思いがしただろう。自分もそのなかに加わりたいと。
 しかし外野でいるしかない我々は「傷だらけの天使」を追いかけることしかできない。亨のように後ろの座席に座ることさえかなわない。
 貧しいオカマだ、ポマード臭い、ケツめどが小さい、小物だとさんざんバカにされた亨だが、思わぬところで大物であることが証明される。それが先に書いた湖での立ちションツレションで明らかになる。
 その大物はほとんど役に立たないことは確か。さらにポマード臭いに他の臭いを今度はズボンのなかからまき散らすまでに発展する。
 下品だガキっぽいと顔をしかめる人は当時もおそらくいまだってたくさんいるだろう。そこにあのヴィヴァルディである。ほとんどバカにしているように響く。けれど本気なのだ。絵画を持って逃げて逃げて行き着く先に見るのは、貧しさに虐げられたものたちの夢の場所の創出であったことも描かれる。
 先の神代作品での池部良は戦争を引きずっていた。今回はまるで戦争で親を失った子供が大きくならないまま子供でいたために見るユートピアへの夢が描かれている。そこにバロック音楽が鳴るのはふさわしいのかどうかわからない。しかし言葉でも理屈でもなく、心に深く突き刺さってくる。
 音楽はクラシックだが、萩原と水谷は劇中歌う。「おかあさん」。オーママママ、オーママママ、というフレーズ。これは萩原がデビューしたGSの「テンプターズ」のヒット曲。萩原はヴォーカルをとらず、コーラスとハーモニカを吹いた。母を慕うナツメと、母の顔を知らない修の息子、健太への気持ちが、乾いたスキャットで表現されている。さらにそのフレーズを歌いながら、絵画を付け狙う、針が飛びだす不思議な拳銃を持った無国籍なおっさんへの復讐も登場する。
 萩原はテンプターズの楽曲をソロ歌手になって以降コンサートなどで歌うことはほとんどなかった。もちろん懐メロ番組にでることなどない。ちゃんと歌ったというわけではないが、きわめて珍しいことだ。他のGSグループ同様、もとは洋楽のロックカバーをしていたのに、レコードデビューとともに王子様のような制服を着せられて、わかりやすい歌謡曲を歌って、キャーキャーといわれたのがテンプターズだった。
 ほんとうの自分はそんな貴公子面したやつじゃないという反発が萩原のなかには当然あり、その反動がまさに「傷だらけ」としてある。テンプターズの楽曲を口ずさむことに抵抗がないといえば嘘だろう。
 それを軽々と歌ったのは神代作品だからに違いない。作品の面白さと完成度に貢献できるなら、過去は問わない。そして萩原はもうGSから大きく飛躍し、同時にGSでフリフリのレースの服を着ていた過去を笑い飛ばして対象化できる位置にいる。 
 歌の話をつづければ「傷だらけの天使」のサントラがLP、つづいてCDとでたとき、つねに今度こそは収録されるかと期待される曲のひとつ、「たまらん節」がここで初めて披露されている。萩原のつぶやきから生まれた鼻歌のようなもので、歌といってもきちんと歌詞があったりするわけではないので、レコーディングされているわけがなく、今後も正式な意味でのレコーディング作品として登場することはない。でもこの歌を好きだというファンは多い。 
「たまらん節」につづけて萩原は、あーる晴れた日に-、ふーたーりはー、とオペラの蝶々夫人の「ある晴れた日に」を歌う。ふたりという歌詞が、萩原とナツメのことで、自分もそこに入れてくれないのかと水谷はすねる。二人のやり取りのおかしさは際限ないレベルに達している。
 今作が問題作で名作であることは間違いない。しかしラスト近くの衝撃的な展開や、やはりバロックと若者ふたりに田舎の町といった違和感は多くの視聴者を喜ばせるには不親切だったのだろう。視聴率はよくなかったはずだ。
 ロケ先はどこだったのだろうか。山間に湖があり、無人駅とおぼしき単線が走っている町。おそらく神代作品である「港町」とともに撮影されているから、同じ千葉ではないか。
 単線の線路の上を萩原と水谷とナツメが歩く。萩原はトレンチコート、水谷は黄シャツにサスペンダー、ナツメは赤のオーバーオール。放映は11月の初めで、そこから逆算しても撮影はまだトレンチコートを着るには早い季節だったはず。ここは自分はトレンチだと考えたのだろう。三人の服と線路の構図は映画のポスターにしてもいいくらいうまくおさまっている。
 当時人気のテレビドラマはいまのように映画になる機会はそれほど多くなかった。あったとすると映画会社の都合で主要キャストが違うこともあった。
 もし「傷だらけの天使」が多くの視聴者を獲得して映画になっていたら、きっとこの回で繰り広げられたキャンピングカー、自転車、乳母車、そして耕耘機! までもといった多彩な逃亡劇のような展開が大スクリーンに映しだされていただろう。

7 自動車泥棒にラブソングを
  ーー正真正銘の第一話は悲しい恋の物語を紡いだ


 今作は初放映が11月の半ばであった。視聴率が回を追うごとに低くなっていたため、局内や撮影現場では相当な批判やプレッシャーが起きていたことだろう。しかしこの回は最初に書かれた一本であり、深作作品と同時期に撮られている初期作で、本来ならば第一回を飾る予定だったものだ。
 冒頭ペントハウスから見た東京の街並みを描くことから始まり、水谷と萩原の番組内での立ち位置や、彼らの置かれている状況が手短に語られていく。
 亨は夏に修と出会って、兄弟盃を交わした間柄で、短いつきあいだったが、別れることになる。亨がヤバい仕事に手をだすのをやめて堅実に働こうとべつの仕事に転職することにしたからだ。亨は綾部情報社からの仕事がないときは、自動車修理工として働いていたのでアルバイトであるほうをメインにと考えたことになる。修にも同所で守衛として働いてはどうかと持ちかけるが、けんもほろろに断られる。
 萩原はベッドから起きて、すててこを履き、窓から放尿し、歯を磨き、ヤカンの口をくわえて飲んだ水でうがいをする。このあいだの緩急つけた芝居も見所のひとつで、やさしいのか怖いのかチンピラなのか行儀がいいのかおしゃれなのかダサいのか渾然一体と入り交じった萩原健一の魅力があふれかえっている。オープニングタイトルも同じ監督で撮られているので、冒頭はオープニングタイトルの別バージョンともいえる。
 監督したのは「悪女」と同じ恩地日出夫で東宝青春映画の名手。オープニングタイトルにセックスの意図があったと語る作り手たちに、そんなことあとづけだよと語る萩原は、起きて放尿、やかんから直接水を飲んでうがいまでさらりとやってのけるのだから、食べることがセックスであるなら、彼が生きて動いていること自体がセックスであるといってもいい。けれど萩原はセックスアピールを漲らせた俳優ではない。セックスの持つ生々しさを無効にする乾いた叙情が彼にはある。
 オープニングタイトルには15枚の白黒写真が短くインサートされている。そのなかで見せる萩原の泣く笑う傷つく照れる顔の多彩で愛くるしいこと。ただ食べて飲むだけで萩原とはどういう生き物か十分過ぎるくらいわかる上に、このカットの連なりはこの男の生き様を図鑑のように見せてくれている。
「太陽にほえろ!」を終えた萩原は同じ日本テレビの土曜九時のドラマ「くるくるり」で人力車夫をやるアンチャンとして主演し高視聴率を得た。この勢いが「傷だらけの天使」の実現に弾みがつき、企画は動きだした。大藪春彦でハードボイルドをという局側の意向に市川森一は異議を唱えて、インチキ探偵社という設定を持ちだし、彼らの根城となるペントハウスを探して、ビルの谷間を見上げて毎日歩いたという。
 夜ごとに市川や萩原は集まり、ドラマの設定やテーマを語り合った。萩原はヨーロッパ旅行にでかけて、ロンドンで見た若者たちのロックンロールリバイバルにおけるリーゼントヘアに刺激を受けて、長髪にパンタロンはもう古い、といい、自身も髪を切り、オールバックの髪型となり、革ジャンを着る。
 同時期矢沢永吉、ジョニー大倉の「キャロル」も同様な恰好で、若者たちに人気があった。しかし萩原のような視聴率20パーセント以上という勢いはない。萩原はお茶の間レベルではアンダーグランドな人気の風俗を「傷だらけの天使」で描くことで、若者たちのほんとうの姿をとらえようとしたのだろう。
 物語は亨が堅気になるため入った仕事は裏では自動車泥棒をして解体していた。修は綾部からの依頼で自動車泥棒を追っていて亨を追いかける羽目になるのだが、途中現れた女に邪魔をされて、挙げ句に拉致される。起点を利かした亨が修を救いだして、女と三人で自動車泥棒の雇い主のカネを奪って逃げることになる。修を拉致した男は蟹江敬三。まだ無名の頃。亨の起点でやって来た田舎の巡査は奥村公延。伊丹十三の「お葬式」で死んだ祖父を演じたといえばわかるだろう。ふたりともに登場場面がワンポイントなのに印象を残し、このドラマのリアリティを底上げしてくれている。
 この回は、先の放映となった「悪女」と似たパターンを踏んでいる。「傷だらけの天使」のストーリーにはいくつかのパターンがある。これは女による脱線パターンのひとつ。脱線ものは他に男によるもの「ヌードダンサー」「港町」、子供によるもの「宝石泥棒」「草原」がこれまでにはあった。
「悪女」と同じ監督のせいもあり今回はテイストが似ている。しかしこちらのほうが印象を残すように筆者が思うのは、悲しいラストと、ヒロインとして登場する川口晶が「悪女」の緑魔子よりも子供目線でいって親しみを持たせるキャラクターのせいもあったからだろうか。
 緑魔子の美しさは時代を超えて支持されるだろう。でも川口晶はその後テレビの世界から消えたこともあり、当時の見え方といまの見え方はだいぶ違うはずだ。川口晶はなんとなくお手伝いさん役が似合うような気のいいねーちゃんといった感じがする。当時はテレビドラマによくでている元気でボーイッシュなところのある役柄が多かった。
 その川口晶は赤いアルファロメオに乗り水着のヒモ跡が残るほどの不必要なまでの日焼けをして、黒人気取りのカツラを被って白いぴちぴちドレスで現れる。
 いま見たって相当おかしいけれど、当時だって不似合いで、だからこそ後半の銭湯に入ってでてきて、お下げ髪になったTシャツ姿にぐっとくる落差を生みだしている。
 そこにはちゃんと理由があって川口晶は都会に夢を見てでてきたが、きっといろいろあったのだろう、インテリやくざのような男を演じる高橋昌也の何人ものいる女の一人として使われている。
 修は彼女に惚れて、もし子供ができたら生めよ、と一度だったかもしれないセックスの責任を口にする。それも車の窓から別れ際に。好きを好きといわずに告げることのできる最初の俳優だった萩原の萩原たる真骨頂。受けて立つ川口晶の顔。それをアップで二度とらえた恩地のわかった演出。それに応えた川口晶の顔は時代を超えて支持されるに値する輝きを放っている。
 カネを持ち逃げした萩原、水谷、川口は、行き着く先をなくす。結局川口は自分の田舎に帰っていくことにする。そのとき家まで送ろうかという修に女はいう、バスで帰りたいの、でてきたときと同じようにバスで。
 このセリフにくわえて彼女のラストカットで走る車に告げる言葉もいい。
 このドラマは青春ドラマと呼ぶにはやや抵抗があるけれど、なぜなら当時の青春ドラマはもう少し健全でかつ型にはまったところが見受けられたので、しかしこの瞬間は青春ドラマ、青春映画の名作に匹敵する。
 そう思わせるのはここに至る三人の逃避行での彼らの姿をとらえたカットの構図がことごとく決まり、映画のように収まっていることもある。
 女ともども奪ったアルファロメオで眠る女と、その横で薪をする萩原と水谷。アルファロメオと萩原と水谷と川口晶が話すカット。テレビにしておくにはもったいない横の構図が決まっている。
「傷だらけの天使」にあるのはリーゼントや革ジャンといった当時の早い流行り物だけでなく、昔からあるけれど特別な意味合いを持って語られることになる言葉の登場もあった。領収書という言葉。仕事を請け負ったとき、必要経費を計上するためや、税務署への申告の際必須となるのが領収書である。いまではなにかを買えば当たり前にもらえる、レシートという名に変わった領収書は当時それほど頻繁に交わされるものでなかったし、領収書の必要性が世間にそれほど知れ渡ってなかった。
 萩原は事細かく、その領収書を、自分の楽しみでしかない煙草を買う際にも取っていく。領収書をもらってこいという探偵社からの指示があるためなのだが、そのことをさりげなくルーティンにして、かつ非日常的ともいえるドラマ内の事件を現実なものに押し込める重しとなって作用させて、笑いにもしている。ETCなど夢のような時代だから、高速道路で料金所でお金を払ったあと、思いだしたように、領収書をください、といったあと、あ、ついてるか、と気づく場面もある。
 逃げる三人の行き着く先として名乗りを上げた亨は、漁師町に住む親戚を訪ねるために手土産を買ってくる。領収書をもらってきたかと萩原はいい、もらわなかっことに、アホーっと怒鳴る。
 もらう必要などないのがほんとうで、どっちがアホーっかわからない。萩原はそこまでわかって、アホーっと水谷の頭を叩く。
 バカ、バカヤロ、バカタレ、そしてアホーっ(ときにはツバまで吐く)萩原の繰りだす罵声は多彩だ。聞く人が聞けばただの下品、悪質、下劣ということになろうが、萩原の罵倒はなぜか汚く響いてこない。それは萩原自身にも向けられているからか、それとも萩原の天才性が生みだすアンバランスな美学が内包しているからか。
 修は瞬間湯沸かし器のように怒り、瞬間冷却装置のように静まりかえる。こんな男の横にいてはたまったものでなく、亨が彼から離れて生きようとするのもさもありなん。いつ飛んでくるかわからないビンタやげんこつが怖くてびくびくしている。しかし水谷はそんなアニキがほんとうは好きでたまらんようで、殴られて蹴飛ばされても、飛び跳ねながらついていく。
 萩原だけでも十分魅力的で、それだけでももう他のドラマが真似しようとしてもできないというのに、水谷の陰性の石に突如咲く花のような笑顔が、ここにしかない楽園的時間を生みだしていく。
 今作はまだ原石であるはずなのに、ここまでドラマを見てきたものにとっては十分に鍛えられてしまっていて、見えないものまで見る力を養っているようだ。
 冒頭去った水谷のいない寂しさをまぎらわす修の点描。萩原は屋上の柵に佇み、街でラーメンをすすり、パチンコをし、映画館でフランス映画で涙して、歩道で歩く見知らぬ男を通り魔のごとく、いや、いたずらで殴って通り過ぎる。
 まだラストもなにも決まってなかった頃に書かれた第一回のドラマのなかに、最終回以後の修の姿があるように見える。
「鳩が、糞を垂れて、飛び立つ」は市川脚本の一行目に書かれたト書き。後年市川は「傷だらけの天使」とはこの鳩、平和の象徴が垂れた糞だったと書いている。
 戦後豊かになった社会。繁栄の中心である東京のビルのてっぺんにいるカネのない目だけギラギラさせた青年。彼は平和が生んだ必要悪だったということなのだろうか。
 でも、萩原なら、そんなことはあとづけだといって笑うだろう。

 

8 偽札造りに愛のメロディーを
  ーーたった一枚しか買えない予算で買ったレコードは浪曲だった


 市川森一の書いた「ヌードダンサー」は最初「御開帳」というタイトルであった。「……に××を」として知られる定型タイトルは、初めから決まっていたわけではないようだ。脚本が集まるなか次第にこの形になっていったのだろう。やはりこのタイトル付けのわかりやすさもあって「傷だらけの天使」は愛されていくことになる。このドラマで起きる事件や登場人物がタイトルを見ただけで予想できる。それはその後だらだらと長くなり、ほとんどあらすじのようになってしまう二時間ドラマのタイトル群とは違うスマートさだ。
 ということで今回は偽札造りが登場する。
 愛のメロディーというのは元名だたる腕のある印刷工でいまや時代の流れに押されてビルの掃除人となった偽札造りにプラトニックな愛を傾けられる女がヨーロッパ留学を目指す若きクラシックピアニストであることに由来する。
「愛の」というのはシリーズ26話中3話あり、前部に「愛の」をつけたものも含めると4話ある。愛という単語はどうにでも使える万能の言葉であり、人々を引きつけるものであるから多用される。しかし、もしこのタイトルを他との差異あるいは作品への切り込みを明確にするために変更するなら「浪花節」になるだろうか。「偽札造りに浪花節のメロディーを」。
 冒頭レコードに針を落とす修は浪曲を聞く。たった一枚しかレコードを買うカネがないのにもっと他のがなかったのかと嘆く亨。たしかに70年代初めは若者はロックを聞いた。それも洋楽。萩原はウッドストックを生で見た数少ない日本人の一人でもある。ふだんはローリング・ストーンズやボブ・ディランを聞いていたかもしれない。あまりのギャップ。では嘆く亨が欲しがったのはクラシック。さらなるギャップではないか。その通り亨はその作曲家の名前をちゃんと発音さえできない門外漢ぶり。ふたりの実情と本音が交錯する。
 彼らの住むペントハウスには高倉健や菅原文太のポスターにくわえて、ロートレックの絵もある。部屋には火鉢もあり、和洋折衷めちゃくゃである。
 レコードは当時もいまもそれほど値段は変わらない。その他の物価が変わっているということは、いかに高級な代物だったか。それをもう一枚買うため(クラシックを買うため)学芸費としてカネをくれと修が綾部情報社に向かうことになる。
 そこで偽札を使った女を調べて、そのカネの出所を探すことになるのが今回のストーリー。
 女はクラシックのピアニストで、奏でるメロディは、これまで何度となく奏でられてきたテーマ曲に対する裏テーマ曲ともいえる「天使の情景M2」。この曲とこの曲のアレンジ違いの二曲の哀切あふれる響きが、どれだけこのドラマをふくよかにしてきたかわからない。ときにはドラマの心情を増幅し、また足りないドラマの説明を一気に情緒的に補い完成させたか。
 けれど、ここではそれほどの力を見せない。クラシックのピアニストが弾くには浪花節っぽく響いたせいか。しかしこの女がヨーロッパ留学のためなら平気で体を許す女であったとわかったとき、超絶技巧なピアノの腕がないこととのつながりに了解してしまう。
 ただ、この女を愛する偽札造りの名手である有島一郎が心のなかに浪花節を流していて、ストーリーの進行で、女のために命を賭けるとき、その浪花節が鳴るなか、殴り込みをする。浪花節はこのドラマを支えるもうひとつの主役となっている。
 有島一郎は名優である。この回のパターンをいえば、「港町」の池部良に惚れ込むのと同じ男に入れ込み依頼された件から脱線していく系統になる。有島一郎対萩原健一。機械化のなかで印刷の仕事を失い、掃除夫となった男に、修はシンパシーを抱くという設定なのだが、名優の芝居が萩原とからまない場所で発揮されていくため、萩原が巻き起こす対役者との化学反応が起きない。

 クラシックのピアニスト志望の女を演じた田辺節子は、下着姿も有島といっしょに風呂に入るのも厭わない熱演ぶりなのだが、萩原が惚れる要素というか、からまりあいがドラマの構成上つくられてなかったため、女に入れ込んでいく見せ場も用意されていない。
 それでも萩原はこの回で今後印象的に繰り返される、もうこんな仕事やめてやる、と辰巳五郎に向けて発せられる言葉を吐く点で、忘れられない見せ場をつくってくれている。修は当然好きこのんで危険な仕事をしているわけでなく、何よりもいいギャラと、女の存在にひかれて、なかなかやめられない。しかしいちばんの理由はもっと他にある。綾部貴子に対してどうしても頭が上がらない。萩原は年上の女性に引かれる、母性本能をくすぐるアイドル・キャラクターを担っていた。綾部への忠誠にも愛のようなものが介在している。それはそれでいいだろう。しかし木暮修として考えたとき、修の過去の秘密がそこにあるのだろうか。 
 今回の監督は工藤栄一。「殺人者」で見せた光と影を使い分ける派手な演出は控えられて、ていねいな物語づくりがされている。田辺節子と萩原が歩く歩道橋のショット、同じく歩道橋の枠を巧みに切ってふたりを並べた構図。忘れがたい絵はある。
 しかしちょっとわかりやすいというか、この時代にいくらでもつくられていた刑事ドラマや時代劇の演出を彷彿させる。それがきっと求められていたのだろう。なにしろ視聴率は低い。もう破れかぶれなことは控えたほうがいい。時代に合わせることで視聴者には指示される。しかし時代を生き残るためには異質であるほうがいい。
 クラシックも広沢虎三の浪曲も若者向けにつくられたドラマのなかで響き合うのは十分に異質だ。しかしここまで見ていた「傷だらけの天使」の異質ぶりに慣れた目にはちょっと物足りない。
 辰巳五郎は電話番の京子に突然キスして、電話の受話器を持ち、話しかけるように番号をいって、京子にダイヤルさせる。岸田森は綾部貴子の目の届かないところではしたい放題をますますエスカレートさせていく。
 初めてこの回で修たちが住むあのペントハウスが代々木駅の西口にあり、エンジェルビルということが判明する。先に書いたあの番号は実際使われている番号で、もちろんそこにかけてもドラマの世界にアクセスできない。いまなら番号をいったら最後回線は破裂するだろう。ビデオもインターネットもなかった時代のおおらかな世界。
 偽札造りのアジトから有島を奪還した萩原のいるペントハウスで不穏な響きを浮かべて鳴るのは、グレン・グールド。ピアニストに偽札造り。若くスタイルのいい女としょぼくれたじいさん。孤高のピアニストと昭和を代表する浪曲の名手広沢虎三。光と影は画面構成だけではない。
 正直にいえば、筆者は浪曲についてはまるでわからない。もしここで鳴る浪曲についての知識がもう少しあれば、この物語に潜む妙味をもっと味わえたかもしれない。ということはまだまだ味わうための旨味は残っているということだ。この回はこれまでの回のなかではやや分が悪いといってしまうのは筆者のは不勉強のほうに問題があるのかもしれない。

 

9 ピエロに結婚行進曲を
  ーーたまらん節を歌うとき、萩原は雨のアムステルダムにいたのかもしれない


 筆者が本書を書こうと至った理由のひとつに、「傷だらけの天使」という伝説のテレビドラマをひとつ見てやろうかと思った若い世代や未体験者に、間違ったところから見てしまわれては、ほんとうのドラマの魅力に気がつかないままとなるかもしれないと思ったことはプロローグでも述べた。
 いまなら連続ドラマは、たいがい三ヶ月単位のワンクールが主なのだが、当時のドラマはツークールが基本であったため、「傷だらけの天使」の26本を全部見るのはなかなか骨のいる作業だろう。アメリカのドラマのようにたとえ一話完結であったとしても、なんらかの連続性が意図的に与えられていないこともある。最初から順番に見ていってくれればいいけれど、そういうわけにもいかなくて、適当なところから見てしまって大失敗してしまうこともあるだろう。筆者はそれだけは何とか避けたいという願いで、これを書いている。
 たとえば前回、そして今回はその地雷のひとつにあたる。
 いや、決してよくないわけではない。ただ、他と較べると精彩を欠いていたり、らしくなかったりするだけで、退屈するところは微塵もない。
 今回「ピエロ」は市川森一が書いている。彼はメインライターとして他のどの作家より多く提供している。
 そのなかにあって「地雷」と呼ぶのは大変失礼だけど、数あればそういうこともあるだろうという理由からではない。
「地雷」になった敗因は萩原の出番が少ないことに負うところが大きい。同様にこの作品の児玉進の監督作でのちに放送される「非常の街に狼の歌を」でも萩原の出番は他と較べて少ない。両作は同時期に撮影されているわけだから、なぜ萩原がこれらであまりでてこないのか。
 これは推測だが、萩原が他の仕事のためスケジュールに支障ができていたからではないか。その仕事とは「傷だらけの天使」放映終了の頃に封切られた映画「雨のアムステルダム」の撮影のためオランダにでかけていたからではないか。「約束」につづいて岸恵子と共演している映画だ。ポスターやスチール、そして本編のなかにいる萩原はこの頃を思わせる。冬のヨーロッパを舞台にし、ラストは雪のシーンで終わる。ちょうど「傷だらけの天使」の放映時期と重なっている。
 仮にそうでなかったとしても、代わりに動き回る水谷が立派に成長してなければできないこと。萩原不在を埋めるに十分な見せ場を水谷は見せてくれる。
 もちろん萩原の出番が少なくてもちゃんと見せ場はある。脚本ではただの競馬の実況中継だったラジオの放送では、萩原はショーケンオーという自分の愛称を彷彿させる馬に賭けなかったかわりに大損を食らうという、視聴者へのサービスがある。
 熱をだした水谷は萩原の巧みな言葉に乗せられてケツに体温計を素直に入れる。その体温計が水谷の肛門にあったことも忘れて、口に入れて今度は苦い顔になる萩原。その上さらに水谷はその体温計を口にするという、コントのようなやり取りで笑わされる。
 タイトルにあるピエロ=結婚詐欺師にまんまと騙されてしまうのは綾部貴子。岸田今日子はこの回では別人のようにふくよかでやさしい女の顔を見せて、豊満な胸の谷間まで見せる。怪しげな「マヅルカ」は封印されたのか一音も針音を震わさない。
 プライドを傷つけられた綾部貴子は修に秘めた怒りを告げる。萩原と岸田今日子の一騎打ちが見られる。岸田今日子が最後に乾杯のグラスをあげるところは意味深である。
 筆者のような、ただの外野がぶしつけに「地雷」と呼んだことをことごとく笑うかのような名場面は盛り込まれている。
 綾部貴子の父が海軍大将で、おそらく彼女はファザコンともいうほどその父をいまでも強く愛していることが、一枚の絵の存在によって明かされる。謎の女綾部がいったいどういう過去を持ってここにいるかを解く重要な鍵だ。それができたのはメインライターの市川森一だったからだ。市川自身の父は海軍の航空隊の教官であったから自身が投影されているのかもしれない。
 水谷はピエロに騙されたもう一人の女子大生とベッドをともにするチャンスを得る。「ヌードダンサー」で筆おろしをしてもらったと自分では豪語しているが、幻想ともとれる語りが亨の童貞喪失にはてながつけられている。「ヌードダンサー」の脚本ではしっかりセックスしていると書かれているが、水谷や萩原たちが、これは違うと考えたのだろう。水谷は女子大生とベッドに入るも、なにもできない。
 今回も裸は惜しげなくでてくる。こんなセックスシーンがブラウン管に登場したことはあっただろうかという貧しくて情けない、そしてかわいい亨がベッドにいる。「たまらん節」を歌いながら生卵を次々と割って、4個も飲んだというのに、どうしたらできるのか結局わからない。
 決してもう萩原の代役は水谷に重くない。その証拠にいえば、もう一本の代役主演作である「非常の街」は名作といって過言ではない出来に着地している。
 岸田森も結婚するという綾部貴子に嫉妬している抑えた芝居で存在をちゃんとアピールしている。
 さらにあの「たまらん節」がラストにフルで歌われている。脚本集では「結婚行進曲」ではなく「たまらん節を」となっている。元はこちらであったのだろう。
「たまらん節」の面白いところは、意味があるのか意味がないのかよくわからない点。
 たまらん、たまらん、たまらんぜ、たまらんこけたら、みなこけた、たまたまらん。
 その歌詞に元?歌手の萩原は音符をそのまま歌い込んでもいる。男ふたりが肩寄せ合って歌うと、なんともしれない高揚感と寂しさが入り交じるのだろう。修と亨になる気分を味わえる歌うコスプレ的楽曲。愛される意味がわかる。
 それでもおまえはまだ「地雷」というかと、いまはいない「傷だらけの天使」のメンバーたちキャストもスタッフもいうかもしれない。
 萩原は滝田祐介演じるピエロに惚れなきゃならない。滝谷に翻弄された女子大生に惚れなきゃならない。萩原は、ばばあと呼んでも岸田今日子に内心は惚れている。だから岸田の仇を取ろうと、シリーズ初といえる本物の拳銃を手に殺しを決行する。相手はもちろんピエロである。
 前回「偽札造り」のピアニスト的位置にいる今回の女子大生に修は惚れるのが難しいだろう。かわりに亨が惚れるけれど、セックスもきちんとできなかった彼の振る舞いに視聴者は笑いはしても感情移入まではできない。
 いったいどうしたらこの回はもっとよくなったのだろうか。おそらく滝田や有島のようなタイプ、紳士や好々爺はこのドラマには似合わない。女のキャラクターはもう少し輪郭をつけて薄幸か世間知らずかもっと気高いものにしなければならない。そういったことは今後の展開に大いに反映されていくことになる。
 前回「偽札造り」今回「ピエロ」とつづいた不調はまだつづくのか、視聴率の低下とともに。もちろん答はノーである。ここからしばらく「傷だらけの天使」の「傷だらけ天使」たる傑作が連発されていくことになる。だからここでやめてはいけない。もちろんテレビの視聴者たちは修と亨にもうぞっこんで、なにがどうなろうが毎週つきあう仲になっていたが。


10 金庫破りに赤いバラを

  ーー情けない金庫破りの小松政夫とオカマの殺し屋加納典明は続編に登場するか? 


 名作のひとつである。萩原主演ドラマとして始まったシリーズはここにきて、ただの脇役に過ぎなかった水谷豊をもうひとりの主役に押し上げるほどのドラマ世界を築く。しかしそこには忘れられないゲストのひとりとなる小松政夫がいたことも大きい。さらに付け加えるなら監督の鈴木英夫の演出に追うところも忘れてはならない。
 今回も前回につづき萩原の出番は少ない。しかし映画に出るためのスケジュールの都合かと思わさない設定がドラマ上の必然として機能し、不在を不在と思わさない。
 今回金庫破りをまかされたふたりは、例によってやっぱり脱線してしまう。番号を合わせて開錠する鍵を前にふたりが悪戦苦闘する様子は見所のひとつ。
 番号を忘れたふたりは何度やってもうまくいかない。萩原に番号を合わせるのを代われといわれた水谷は、もう何十回も回しているのにと回数をぼやく。回数じゃないんだ、内容だろと叱る様子がおかしいし、懐中電灯を口でくわえて、番号を照らしながら回す萩原の芝居は彼らの四苦八苦を一瞬で伝えてくれる。
 そこに、偶然なのか、仕組まれていたのか、金庫破りが押し込んできて、書類を奪うだけだったのが、一千万円の大金までも萩原たちの手に転がり込んでしまうことになる。一方の金庫破りのひとりが小松政夫が演じる一平だ。
 思いがけず大金を手に入れることになった萩原と水谷は愛すべき浅はかさを練り、一千万円をいただこうとする。
 萩原は水谷に金庫破りの現場に様子を見させるために戻らせたあと小松と話す。萩原は唐突に歌謡曲が好きかと聞き、小松はアグネス・チャンが好きという。萩原は、美空ひばりが好きで、今年の紅白にでられるだろうかと心配する。美空はかつて毎年紅白の常連だったが、その頃事情があって、出場から遠ざかり、古くからのファンは年の瀬が近づくと話題にしたものだった。
 金庫破りが自分たちの置かれている状況とはまるで関係ないことを話す。こんな斬新な光景をスクリーンで見て我々は後年驚くことになる。そう、タランティーノである。「レザボアドッグス」「パルプフィクション」のダーティたちはマドンナやマクドナルドの話をして銀行や人殺しに向かった。
 そして唐突であった話からでた小松政夫が似つかわしくないアグネス・チャンが好きといったことが、小松のキャラを一気に形作っていく。
 情けない金庫破りはさらしをだらしなく太った腹に巻きえらそうにするが、ほんとうは女の尻に敷かれている。小松が見栄を張る横で、アニキ、あいつほんとはスケベだよ、という水谷。こういうセリフの間合いと言いぐさは萩原といるうちに水谷が習得していったに違いない。
 脱線は当然次なる危機に向かっていく。綾部貴子から自首しなさいといわれて反論できなかった萩原は他のふたりを向かわせようと考える。狭いアパートの小さなテーブルに大金を並べて話し合う萩原、水谷、小松。その向こうに小松の女である川崎あかねがいる構図。話し合いは最終的にトランプでいちばん数の小さいものが引いたものがいくことになる。オチはどうなるかだいたい読める展開。そこへ向かってひたすら三人の芝居がつづいていく。小松が「電線音頭」で一気に人気者となるのは「傷だらけの天使」が最終回を迎えたあとになる。まだコメディアン系の三枚目として知られるだけ。歳は彼らよりも上だが、どこか頼りない様子があって、亨の下にもうひとりバカがいる構図が出来上がっている。
 最初に小松が大きい数字を引いて万事休す。つづく亨がやはりツボを踏む。辰巳五郎に、(アキラの)第二のふるさともといわれた刑務所に向かうことになる。しかし靴を履くところで、まだアニキが引いてなかったことを思いだし、もちろん展開は……。
 このあたりは「男はつらいよ」の柴又での寅さんととらやの人々のやりとり級の展開である。この回限りであったから、ドラマは名作となった小松政夫。もう一度でてくれてもいい三人目の傷だらけの天使。しかしそうならなかった潔さがいいところであったのかもしれない。
 萩原不在となったところで、水谷と小松はバカの二人連れを新宿の街でつづける。元鍵屋の一平はヘアピンでコインロッカーを巧みに開ける。萩原を裏切ってカネを奪い取ろうとする小松。しかし水谷はすんでのところでできない。
 途方に暮れつつ目指すのは次の悪知恵。小松を金庫破りに向かわせた黒幕に駆け引きを申し込む。取引場所は西新宿。まだまだ少なかった高層ビルを背景にふたりは当時人気だったブルース・リー起源の空手アクションを初めて退屈をしのぎする。小松は履いていた地下足袋を破いてしまう。水谷はすかさず裁縫道具を取りだして、中学の家庭科で習って得意だからいつでも持っているんだと、地下足袋を縫ってやる。「天使の情景バリエーション」の楽曲が後ろに流れるこのシーンは先の自首トランプとは趣が違うけれど、鈴木英夫の演出とキャストのイキがあってこそ可能だった。
「傷だらけの天使」に魅せられて何十年経っても口にしているものは、もちろん筆者も含めて、このシーンにやられてしまったはず。バカ同士の友情と悲しみが都会のビルの狭間でひっそりと咲いている。子供のじゃれあいみたいなブルース・リーごっこはそのとき世界につながるスクリーンに届いている、彼らの脳内と、見ているものの心に。
 萩原が小松に惚れることはない。しかし水谷は小松に惚れる。ほんとうは萩原だって小松に惚れてもいいくらい自分もダメであることは知っている。しかし萩原のスター性が邪魔をしている。萩原はアニキなのである。アニキは好きな女にさえ、好きだ愛してると素直にいえないところがあるから、アニキなのである。
 水谷は小松のために命を落としてもいい覚悟を持つ。
 小松をヤバイ仕事である金庫破りに誘った男はバラを胸にアパートの押し入れで殺されていた。金庫破りの黒幕の殺し屋の仕業である。ヨシオカというその殺し屋を演じるのは加納典明。写真家。オープニングタイトルで萩原のモノクロカットを撮った彼である。加納は後年タレント活動をやり、多くの人に知られることになるが、このときは映画に出た経験はあるものの、ほとんど誰も知らない存在。亨と同じオールバックのリーゼントに白いドーランに赤い口紅をつけて低いボイスの生硬な語りで、あなたも赤いバラが好きなようね、と迫って殺しをする。あいつきっとこっちだよ、と口元に手をあててオカマだと笑った亨は加納に股間を触られて生死を彷徨うことになる。これまでにミルクを飲むヤクザや、針が飛び出すピストルを持った殺し屋がでてきた。個性的な悪役群に、ここでついに忘れがたい究極の悪役が登場する。俳優でなく芸術家だったことが功を奏し、テレビサイズを突き破る不穏さが横溢している。たった一度の登場でしかなかったことが惜しまれる。
 小松は女とともにカネを持ち逃げして、女の田舎にいってやり直そうとする。ここでも田舎がでてくる。「傷だらけの天使」は都会と田舎が対比的に常に登場し、都会に対してのユートピアを田舎に見る。「ディスカバージャパン」という標語で国鉄が都会よりも地方へとうたった頃。田舎=原点だったのだろう、都会で傷ついた心を癒やしてくれる、あるいは再出発のできる場所、いまならヒーリングスポットみたいな場所としてあった。
 小松は女にバカにされて、しくじれば長らくでてこられないムショ暮らしを覚悟して、亨を救うことを選ぶ。
 得意のヘアピンで、カネを隠したコインロッカーを小松は開ける。最初に小松がコインロッカーを開けたとき、小松は自分の耳の後ろからヘアピンを手品のように取りだす。つづく二度目のコインロッカーでは、耳の後ろにヘアピンはなく、いっしょにいた女の髪から取りだして開ける。小さなことだけれど、小松が最初と同様にヘアピンを取りださないところに、小松の心の揺れと、女との関係がわかる。小松はもう足を洗おうと思っていたからいつも持っているヘアピンを持ってなかった。女のために。しかし心変わりの果て、女の髪から取ったヘアピンで鍵を開けるのだ。
 亨の裁縫道具。ヘアピンと同様ほんとうは女の持ち物。男が裁縫道具を持ち歩いているなどいまも昔も会ったことがない。萩原は持つだろうか。持っても面白いかもしれないが、水谷のあのポマードの油を針につけて滑りをよくする芝居があってさらにリアルさが加わるし、水谷は不器用そうに見えて、じつは手が達者というのはすごく納得できる。ヘアピンと裁縫道具が水谷と小松を兄弟分の盃のように結びつけている。そこに同じオカマと見える加納演じる殺し屋がぽつんと手に持つ赤いバラという不協和音。ほんとうの恐怖、悪は美しさのなかに毒を秘めさせている。
 ここまでの回で水谷は、アニキと何度もいってきた。そしてここに来て萩原は、アニキと水谷が叫ぶように、アキラと名前を連呼するようになっていく。アニキとアキラは言葉は違うけれどまるで同じように響き合う。ふたりの関係が徐々に対等ともいえるようになってきたからか。
 後年アニキという水谷の口真似は「傷だらけの天使」の物まねとして多用されるようになる。しかし萩原のオープニングタイトルの真似をするものがいても萩原のしゃべりを真似するものはほぼいない。「傷だらけの天使」の終了半年後に始まる次の主演作「前略おふくろ様」で演じたサブちゃんの口真似は真似して真似してさんざんやられ尽くされるのに。
 萩原の真似、この「傷だらけの天使」の修の口真似はなかなか難しく、物まね芸人でも、影響を受ける俳優でも、恰好や髪型はできても、声色には届かない。
 萩原の変声期中かと思える破裂音を含んだ高音は萩原だけのもの。いや、のちの萩原ももうできなかった。まるでマイケル・ジャクソンがジャクソンファイブにいたときの声のように一瞬のきらめき。
 その声はいったい何なのか筆者はずっと考えてきた。あれはブルース・リーの快鳥音と呼ばれる雄叫びとほとんど同じではないか。ブルース・リーのあとを追って多くのアクション俳優がカンフーを繰り広げたが、肉体や所作は真似できても、あの声だけは追いつけなかった。萩原はもちろんブルース・リーの真似をしたわけではないだろう。しかしまるでカラスが悲鳴をあげたようなあの高い声や、その高い声を口のなかだけで爆発させて、音をこぼれ落とすつぶやきは、俳優のメソッドに乗っていないどころか、他の映画俳優も辿り着いたものがないヴォイシング。ただひとり、それに似たこことをやっていたのはブルース・リーではないか。
 水谷と小松が新宿高層ビルをバックにやるブルース・リーごっこ。そこに萩原がいたらきっと証明されたはず。しかしそのとき萩原はトランプで2を引き、ブタ箱のなかにいた。
 小松政夫と加納典明。ふたりの登場人物は、もし続編があるなら、もう一度会いたいと真っ先に思わせるゲストである。小松や加納はこの頃の熱演をまた見せてくれるだろうか。


11 シンデレラの死に母の歌を
  ーー萩原と水谷は対等になり、名作が生まれる


 これまた名作である。
 ペントハウスに帰り、冷えたご飯にお湯をかけて冷えた焼き魚? を食べる修は一仕事を終えてトルコ? にでもいっしょにいく約束を亨にしていたのだろうか。急な心変わりで、健太のためにプラモデルを買い、子供に会いにいくことにしたと亨に告げる。もちろんごねる亨。女の前ではビビってなにもできないくせに、亨は健太のプラモデルを投げ捨ててしまうくらい機嫌を損ねる。
 萩原と水谷のやり取りは脚本のト書きやとセリフを超えてどんどんと世界を豊かにしていく。
 カセットテープに吹き込まれた健太の声に返事をする萩原の芝居。そのカセットテープをエロテープと勘違いする水谷の動き。
 冒頭からふたりはペントハウスにいる彼らの世界に視聴者を引きずり込んで離さない。
 水谷は前回「金庫破り」でも帰宅するOLのパンツを階段の下から覗き、今回は道行く女のスカートをわざとめくって喜ぶという傍若無人ぶりを発揮する。
 水谷は完全に亨という、中学中退のブタ箱を故郷にする、貧しいオカマのキャラクターを血肉化してしまっている。
 作り手たちもそのことをよくわかっていたのだろう。萩原が挑む相手はあっという間に育ってきた水谷という身内であり、視聴者はその対決を見たがっているだろうと。そのためにこの回は用意されたような話の構造である。
 ふたりに舞い込む仕事はふたりの女と付き合い、どちらが資産家の孫娘であるかを調べること。孫娘は幼少の頃誘拐されて行方不明となっていたが、資産家である山林王の余命がないと知り、名乗りを上げてきた。本物ならば孫娘に巨額の遺産が渡されることになる。
 水谷はアニキを差し置き美人を選び、萩原は彼には不釣り合いともいえる、おぼこっぼくて垢抜けない「ブス」を選ばされる。
 対決であると喜ぶ水谷に、こんな汚いショーバイに勝ちも負けもあるか、と吐き捨てる萩原の負け惜しみは正鵠を得ている。
 水を得た魚のように弾けまくる水谷に対して、萩原は後部座席から運転席に話しかけるのに、バックシートからでなく、窓を乗りだして運転席にいる岸田森に向かう。カメラの構図が動きを選んだのだろうが、萩原の芝居は修の焦りや怒りを見事に表現しているし、動きに無駄がない。萩原の動きはほんとうに無駄がない。前回「金庫破り」でも小松政夫に挑むとき、小さなテーブルを座った姿勢からひょいと乗り越えて相手の横に立つ。動物のような跳躍と姿勢の崩れない着地。そしてただ動きが軽いだけでなく、動きが鈍いのもちゃんと演技してしまう。それも前回「金庫破り」で亨を助けるくだりで塀を乗り越える芝居で見せてくれる。
 こんな役者になかなか立ち向かえるものでない。そこに現れたのが水谷である。水谷は徐々に萩原の魅力を食い破る勢いを持ち始めている。
 サロンに勤めるホステスの美人を選んだ水谷は赤の蝶ネクタイ姿でどこのアホボンかというありさまで現れる。悪者臭ぷんぷんの女は水谷をまんまと連れだしてベッドイン。どうせビビってできないくせに気持ちだけはやる気満々である亨を、水谷は蝶ネクタイひとつを小道具にぴしっと決めて笑いにする。 亨は蝶ネクタイだけをつけてベッドで横になっている。「服をお脱ぎになれば」と女にいわれて、布団をめくれば、全裸に蝶ネクタイだけしている水谷が現れる。
「ブス」を選んでしまった萩原はイヤイヤながらでありながら、徐々に女にひかれていく。けっして彼女は美人じゃないが、親しみの持てる顔で、この頃芸能界にあふれだすアイドルたちはこちらの風貌だ。見ているものはこの子にシンパシーを抱く。中小企業で働くOという彼女、初枝はかつての吉永小百合的なイメージが垣間見える。
 勝ち負けなどあるかといってのけた萩原だが、亨に負けることはプライドが許さない。先行逃げ切りの体勢に入った亨に修は黙ってられない。またまた水谷は図に乗る亨を焼き鳥屋の屋台で踊るように喋って、演じきる。
 水谷の人気は放映時に回を追うごとに上がっていったという。しかしこれはまだ放映は12月の初めだが、撮影は11月か10月の終わりで、巷の人気はまだ来てないはず。けれど萩原は水谷の人気がそのうち押し寄せてくることくらい百も承知であったはず。
 修は調子に乗る亨を理不尽なまでに殴り、焼き鳥屋の屋台をぶっつぶして、バケツをぶちまけて、おまえとはもうこれっきりだ、ひとりでやっていけと三行半を叩きつける。
 これは役柄でのこと。筋書きにあることとわかりながら、その鬼気迫る芝居にフィルムに焼き付けられたドラマを見るものたちは、もうひとつのドラマを重ねてみたりする。
 みどころはさらにあり、岸田森の演じる修が登場する。革ジャンに腹巻き。その腹巻きに女性週刊誌「ヤングレディ」が入っているのは「殺人者」で修がやくざに殴り込みにいく際、突っ込んだことから来ている。亨が読んだ週刊誌の星占いを聞いて、お守りがわりか腹巻きに突っ込みでかけていった。
 岸田森は修のしゃべりを真似し、ドアの外に立っているときはだらしなく革ジャンを着ているところまでやり(修はそんなことはしないが、バカなのだから、こんなことをするだろうという辰巳の過剰な演技)、まったく芸がいちいち細かい。
 修になりきり、女と寝ることに成功し、秘密を聞きだす手前で嘘はバレる。岸田森は思い切り殴られても微動だにせず、飲みさしのブランデーをグラスごと、暴漢に投げつけて立ち回りを繰り広げる。
 もし劇場でこの様子が繰り広げられたら観客は手を叩いて喜んだであろう場面の誕生である。水谷の成長とともに岸田森も弾け出す。「殺人者」で坊主頭を見せたことで大きく振り切れたのだろうか。いや、演劇界を代表する賞、岸田賞の名にある劇作家の岸田國士を叔父に持ち(ということは岸田今日子の父)、森という名を岸田國士に名付けてもらった岸田森。彼は「傷だらけの天使」にでるまえから、十分規格外れの俳優と知られていたわけで、柔らかくて堅い、天才少年だと評した水谷豊のCMをのちに数多く演出もしているほどの才能を持っていた。
「傷だらけの天使」は井上堯之バンドのサントラだけでなく、音楽がじつに多彩でうまく使われていると回を追うごとに感心する。
 時代を彩る歌謡曲は常に流れる。「女の道」がこれまで何度か流れたのはこの曲が歌謡史上に残る名曲でありミリオンセラーであったからだろうが、回を重ねて時が経つにつれて、新しいヒット曲が聞こえ始める。ここでは梓みち代の「ふたりでお茶を」に、同年のレコード大賞となる森新一の「襟裳岬」も流れている。
 今回登場するのは「オーマイダーリン、オーマイダーリン」と歌われる「いとしのクレメンタイン」。「雪山賛歌」として知られる、ジョン・フォードの「荒野の決闘」に使われた曲である。のどかで、やさしい響きを持つこの歌の由来はまるでこの物語の最後を暗示するような秘めたる話を含んでいる。その歌をレコードでかけながら萩原を待つ「ブス」と呼ばれた初枝。しかし初枝はもう気落ちするような容姿ではない。萩原が彼女の心に惚れ、ミスユニバース並にきれいにしてと美容師に頼み、社員割引きを店員に無理矢理頼み込んで買ったスカートとブラウスで別人のようになっている。
 水谷の芝居に牙城を犯されつつある萩原は、初枝を連れて美容院に連れ込むところや、女物の服を買うといった芝居を見せて、いくらなんでもおまえにはこんな芝居は無理だろう、といってるようだ。
 ところが女はもう一方のホステスサイドの暴漢たちに殺されてしまう。病院に駆けこむ萩原を待つのは岸田森。ふたりの病院での廊下でのやり取りも目が離せない。またおまえの仕業かと怒る修は、自分の真似をして目に黒いあざをつけた辰巳五郎に、もう片方の目もやってやろうかと拳を握る。修の真似をしたときはあれほど強かった辰巳は情けないほど弱く、しかし病院の看板にある、お静かに、を盾にしたり、火災報知器に手をやり、ほんとうに押すぞ、と脅す。
 水谷が萩原を食い破るなら、わたしだってもう黙ってられないよという岸田森がいる。
 あっけなく命を落とした女の田舎に遺骨を届けにいく修と亨。前回「金庫破り」の小松政夫の女が目指そうとした田舎のなかをふたりは歩く。手には遺骨とトランクを持ち。亡くなった女をひとりで育てた祖母は浦辺粂子である。後年片岡鶴太郎に物真似されることでも有名となる黒澤や小津映画にもでていた名脇役のひとりである。
 萩原は浦辺に孫娘が死んだことを告げることができない。キンタマが小さいと罵るのはいままでは役柄が反対だったともいえる水谷のほうだ。
 ふたりは五右衛門風呂にともに入り、萩原はおまえの三本目の足があたったと狭い風呂のなかで文句をいう。
 亨は修に、死んだ初枝は健太のおふくろさんになってくれたらよかったのにね、という。そういう亨は田舎で堅実な暮らしがしたいと憧れている。
「オーマイダーリン、オーマイダーリン」といって萩原の帰りを待ちわびたように、今度は風呂のなかで亨は歌う。まだ見ぬ幸せを願うように。
 そしてまたその夢は簡単に潰える。翌日外から戻ってきた修のまえにズタボロ傷だらけになった亨が泣き叫ぶ。水谷は笑うように泣き苦しみ、のた打つ。ああ、こんな芝居ができるのは水谷だけ。まったくこのドラマはタイトル通り主人公たちは、これでもかとばかりに血まみれになり、傷を負っている。それはただの化粧でも血糊ではない。施された傷の向こうから彼らの魂が響きだす。
 こんな芝居を見せられたのでは、萩原はまた黙ってられない。追ってきた暴漢に棍棒片手で挑んでいく。井上堯之バンドのメロディがかぶさる。待ってましたのアクションに流れる音より陰りを帯びた旋律が響く。弾みつつ、ためが効いたサントラ。流麗にサックスが鳴り、確かなカッティングをギターが刻んでいく。この楽曲は最初にでたサントラLPには収録されていない。LPは「太陽にほえろ!」とのカップリング盤であった。「天使の……」というタイトルは作曲者たちによるものでなく、発売レコード会社が勝手につけたものが多かったという。そのため「天使の太陽」と名乗る曲は、「傷だらけの天使」サイドにあたるレコードB面に収められているが、「太陽」の楽曲である。この曲の代わりに入れて欲しかった曲は多いが、ここで流れる曲もそのひとつ。のちに発売されたテレビ使用曲をそのまま収録したミュージックファイルシリーズにて初めて商品化された。
 萩原は暴漢を次々と倒していく。たったひとりでそれはないだろうという疑問を差し挟む寸前に場面は無音となり、そこに強い雨が降り出して、畑から鶏小屋まで逃げ込んでいく場面につながっていく。ここはもう黒澤の「七人の侍」をひとりでやっているような名場面だ。このドラマの主役はやはり萩原だ。水谷に立ち回りは似合わない。萩原のほうが水谷より身長は高いが、それほどの差があるわけでない。人には向き不向きがあるということなのだろうか。工藤栄一は「風の中のあいつ」で萩原を演出したときに、こういうときにこうやればこう映るんだと実際にカメラを覗かせて、スタートしての思い上がりもあった彼を指導したと語っている。天性の勘を持った萩原は固さをすぐになくしていったという。
 そして場面はペントハウスとなり、すべての事件が解決したあとになる。萩原たちのところに岸田森は約束のギャラを届けに来る。カネを一枚くすねとったと疑われる岸田森は修を怖れつつも、ちゃっかり手に入れている。ちょっとだけよと最後にいうのはドリフターズの加藤茶のギャグ。この頃の流行語のひとつ。
 三人の軽いやり取りのあとラストになる。「オーマイダーリン、オーマイダーリン」と歌いながら手には死んだ女による「オーマイダーリン、オーマイダーリン」が入ったポケットタイプのカセットテープレコーダー(もちろんウオークマンなどまだない)。その手にはかつて骨箱があった。女は死んだが生きている。「いとしのクレメンタイン」が水死によってあとに残された恋人を愛しむ様子を歌ったのが原詩である。そんなことなどなにも知らなくても「オーマイダーリン、オーマイダーリン」は忘れがたい響きとなって二人の姿とともに目に焼き付く。
 監督はこの頃青春ドラマなどをたくさん撮った土屋統吾郎。筆者は彼の名前を再放送ドラマに見つけるたび胸をわくわくするようになった。


12 非常の街に狼の歌を

  ーー岸田森の魂は射撃屋のオヤジの片足を抱き、いまも丸の内を歩いているか

 今回は「ピエロ」と同じ児玉進作品。「ピエロ」の回でも言及したが、萩原不在を埋めるため、彼の出番を抑えて構成されている。
「ピエロ」はやや物足りないところもあったが、今回は萩原不在でも萩原にちゃんと見せ場もあり、また埋めるのは水谷だけでなく、岸田森も加わっているためか、「傷だらけの天使」の新たな魅力として完成している。
 今回は「港町」鴨川グランドホテルにつづくタイアップロケもの第二弾。場所は熱海。水葉亭がタイアップ先。熱海といえばかつては新婚旅行に向かう先と賑わっていたが、放映当時ももうその頃の面影はなくなりつつあり、そのことは新婚カップルの新郎役として登場する水谷にタクシー運転手が、あなたたちのような人はいまどきここには珍しいといっている。
 亨がなぜ新婚カップルを装い熱海にやって来たかは、相手の新婦役を務めるほんとうの旦那が会社のカネを持ち逃げして、この地に潜伏して高飛びを狙っているのを見つけて阻止するため。
 亨は新婚カップルとしてホテルに滞在して、カネを持って高飛びを狙っている男の噂を巻いて、高飛びを援助する男を捕らえようとしている。その男なら逃げた旦那の行方を知っているかもしれないと綾部情報社は見て取った。
 高飛びを狙う男として繰り込まれたはずの修は熱海駅であっけなく事故に遭い入院となり、代わりに辰巳五郎の出番となる。
 岸田森、今度は前回と違い、正式な修の代役である。そんな危ない橋など渡りたくないのだが、岸田今日子にいわれたら楯突けない。
 なにも知らない亨は新婚カップルを偽装しているのに人妻である新婦をなんとか寝取ることに余念なく、自分が何のためにここに来ているかなど二の次三の次の脱線ぶり。
 夫婦ともにストリップを鑑賞して、隣室にいる岸田扮する高飛びを狙う男の噂をまき散らしながらも、御開帳もしてないストリッパーに頭に血が上り、鼻から血をだす。このときの水谷の顔は彼の子役時代の初主演作だった手塚治虫原作「バンパイア」のトッペイを彷彿させる。トッペイは狼男である。狼に化けた男が同じ顔をして今度は鼻血をだすとはおかしすぎないか。まさか、血の飲み過ぎ? とツッコミを入れたくなる。
 高飛び屋がまんまと食いつき、支度金を海に投げることになり、ボートで監視をすることになった亨がちゃんと仕事できるわけがない。
 同様に別荘から望遠鏡を手に車椅子から投げた札束を奪いにやって来る高飛び屋を探す修は岸田今日子に仕事などしないでいいと取り上げられる。
 人に食べるところを見られるのが嫌いだといった綾部貴子は修の食べる様子を見るのが好きらしい。
「金庫破り」の回で岸田今日子は、これまで見せなかったやさしい笑みを浮かべて修の指名手配写真を見ていた。「ピエロ」で自分の思わぬ醜態を見せてしまったせいか、それとも以前からいった「かわいい子供」というように言葉面でなく、本気で思っているのか、綾部貴子は修をやさしく見守る母のような眼差しをたたえるようになってきている。
 その修は亨同様ちゃんと仕事などしてなく、ホテルでよろしくやっているカップルを覗いて楽しんでいたのだけど。
 亨も同様。ごめんなさーい、と水谷にしかできない甘えたバカな声をだして、女に押しかかろうとしてボートから落とされて気がついたときにはカネはもうなくなっている始末。
 ところが高飛び屋は彼らの企みを知り、カネを返して、辰巳五郎の足をすんでのところで轢き潰すお礼をする。
 高飛び屋が町の射的屋だとわかった亨、辰巳、依頼主の新婦役の女は見せに向かう。そこに現れるのは射的屋を狙うもう一組の怪しいふたり。
「金庫破り」のバラを手にするオカマの殺し屋に匹敵する、奇妙な笑いをあげる、コートと白い手袋のギョロ目と、角刈りの大男。鈴木和夫と佐藤京一。東宝と東映で活躍した一度見たら忘れられない悪役ふたり。射的屋のコルクのライフルが的を撃っていたのどかな景色が一転本物の拳銃で射的屋を演じる土屋嘉男の足に打ち込まれていく。ただただ笑って隣でコルクをライフルに詰め込んでいた鈴木和夫の笑いはひたすら怖い。子供ならこの場面を見たら夢に見たかもしれない。
 ふたりの登場は他にもあるが、この射撃屋の場面は萩原なしがもったいないほどの名場面で、萩原がいたらさらなる伝説がひとつ加わっただろう。
 すでに寂れかけた温泉街の射的屋にならこんな殺し屋が現れて人をおもちゃのようにして殺してしまうなど簡単だろうと思わせるのに十分な迫力である。
 裏の部屋に逃げ込んだ亨は当然怯えて手も足も出ない。炬燵に逃げ込む亨はあまりの恐怖に炬燵のなかを逃げすぎて外にでてしまう。水谷の体の動きが萩原に迫っていくような瞬間が現れる。
 クールを心情とする辰巳五郎の内実は見せかけだけであることは胃の薬を飲まなければやっていけないところで十分にバレている。高飛び犯に会うため待っているとき亨に、胃の薬を飲む時間じゃないの、といわれてしまうくだりが今回あって、亨がバカなのか正直なのかわからない一面を見せてくれる。
 意外でもなくほんとうは小心者同士のふたりを差し置き、土屋が撃たれるさまを目を輝かせて見るのは新婦役の女の水原麻記。美人である。「傷だらけの天使」にふさわしい悪女。この頃の女優は美しいか、そうでないかとはっきりしている。男優だって二枚目か三枚目かであったのだが、萩原や水谷の登場などで徐々にその垣根は壊れていく。そのあとに女優にも変化がやって来て、このあとの回にも登場する桃井かおりはその垣根を壊していった一人だろう。
 水原麻記は高飛び屋が全部吐くまで見守る気満々だったが、ついに亨がたまらず、拡声器を手にして警察の声をだして殺し屋たちを追い払う。
 血だらけになりいつ死んでもおかしくない土屋嘉男は岸田今日子と萩原のいる別荘に運び込まれて、病院へ連れていってもらえない。
 土屋が知るカネを持ち逃げした男の行方を土屋が口を割れば助かる。けれど土屋は死を覚悟して黙っている。男との約束、契約を守るためだ。
 土屋嘉夫は「七人の侍」で妻を野武士に奪われた百姓を演じ、また東宝の特撮映画の数々にでた名優のひとり。たった一場面に近い萩原とのからみは対決にふさわしい印象を心に刻む。
 命を賭けてまで守ることなどする意味がどこにあると聞く萩原に、おまえはその足をどうしたんだ、と土屋は蒼白な顔で聞き返す。萩原は子供を助けようとして気がついたら車に飛びだして足をケガしていた。そのお礼に熱海警察から表彰されて金一封、たった500円をもらっている。
 おまえだって、そうじゃないかといわれた萩原は、ただ黙るしかない。そうなればもう車椅子に乗って、男が死んでいくのをみすみす見ていくわけにはいかない。
 萩原は水谷を連れて、止める岸田森を振り払う。当然味方すると思った岸田今日子は、連れていけといい、この場所にはこの人は似合わない、といいのける。
 助けてやれではなく、この場所に血まみれの男はふさわしくないという綾部貴子の矜持と優しさの入り交じった言葉。
 土屋嘉男は高飛びを約束した男であり、萩原たちが追っている男にニセのパスボートを渡すつもりだった。しかし男は来ない。
 ことは意外な展開を見せて、すべてなにもなかったように男は会社の机に座ることになる。
 萩原と岸田森はそのことを熱海の夕日をバックに話す。萩原と岸田森はこれから何度となくぶつかる。ただいいようにやられていただけの修は、徐々に辰巳五郎に無骨で不細工で無粋で不格好な振る舞いの数々を見せつけていくことで、辰巳五郎のガラスの心にヒビを入れていく。その最初の一撃がここに記されている。
 仕事のためなら、カネのためなら、綾部貴子社長のいいつけなら、辰巳五郎は命も惜しまない。しかし萩原がその心を変えていく。
 事件が終幕を迎えて凪となったとき、辰巳五郎は亨を従えて、自分の矜持を守るためにカネを持ち逃げした男の勤める会社に乗り込んでいく。
 これだけはいってやらないと気が済まないと何度も繰り返すのは、犬やゴキブリでも集団のルールを守って生活してるんだよという言葉のつらなり。
 辰巳は男の前で見得を切ることはできるのか。つきあう亨は手にバイオリンのバッグを手にしている。はたしてどうなるかはまだ見ぬ幸せな人のために。
 そしてラストカットは会社に向かう烏合の衆のように歩くラッシュの群れ。そのなかを反対の方向から歩いて抜けていく辰巳五郎と亨。
 岸田森は番組終了からおよそ7年後に癌四十三歳の若さでこの世を去る。
 社畜とまでいわれた日本のサラリーマンたちの会社への忠誠心はこの頃の時代よりはもうだいぶ薄れている。しかし企業や国家は平気で自分たちの不利益を隠すために嘘をつく。それはあの頃よりもずっと巧妙に狡猾に。
 いまもあの頃と変わらず見られるサラリーマンの人混みを見たら、あのなかに岸田森とポマードを塗った水谷豊が反対向きに歩いて通り過ぎていくのを夢想して欲しい。そして岸田森が繰り返したあのセリフをつぶやいて欲しい。

「あなたの行為がどれだけの人を苦しめたか、胸に手をあててよく考えてみたまえ。犬やゴキブリでも集団のルールを守って生活してるんだよ。会社が許してくれればそれで済むってもんじゃない」と。


13 可愛いい女に愛の別れを

  ーー煙突付きの風呂は陰の脇役のひとりでもある


「金庫破り」から始まる「傷だらけの天使」の好調はさらにつづく。
 今作の「可愛いい女」とは吉田日出子。変わった雰囲気の、いまでいう不思議ちゃん的個性派女優として、テレビや映画にでていたが、代表作となる「上海バンスキング」はまだ生まれていない。知る人ぞ知る存在だった頃のことだ。
 じつにいいキャスティングといえる。彼女が加わったことで、修の乱暴さにくるまれたやさしさ、亨の貧しさからくる傍若無人と気の良さといったものが、改めてクローズアップされている。
 萩原は革ジャンかノーネクタイのスーツファッションでいつもキメている。対する水谷はいかにもチンピラといった派手な色に刺繍のついたジャンパーをよく着ている。その刺繍が水谷の亨成りきりの度合いに比例してか、今作では背中にウサギとキノコ、表は独楽とサイコロ。東洋なのか西洋なのかわからない奇妙奇天烈で、亨のバカのくせにたまらない愛くるしさが表現されたユニフォームとなっている。しかしいったいどういう発想、意味が込められると、西洋風のウサギに、独楽とサイコロが同じ服に描くデザインになるのだろうか。
 水谷はそのとき喫煙者だったのかどうかわからない。しかし萩原や岸田森が吸っていても水谷は吸わなかった。喫煙しないのかと思って見ていると、「シンデレラ」で初めて煙草を吸い、今回は二度目。「シンデレラ」も今回も必然的な使い方であえて喫煙しなかったことがわかる。
 過去のドラマや映画は喫煙シーンがやたらとでてくる。いまの感覚から見ると、のべつまくなし吸っているように見えるが、よく見ると必然的な小道具として使われていることがわかる。
 亨の喫煙は「シンデレラ」の回で、修から三行半をいいわたされる場面で吸っている。互角になったと勘違いする亨に煙草は必要だろう。
 今回は会社に乗り込んで情報を得ようとするとき、洋雑誌「TIME」を原文で読む重役の部屋から煙草をくすねたときに吸う。このときの水谷はどこをどう切ってものチンピラ。それも頭の悪いただの使い走りでしかない。しかしそう見えないようにと必死に頑張りながらも、馬脚をボロボロ見せてしまう演技をさらりと見せてくれる。
 亨がなぜ会社に乗り込んだかというと、元はといえば、修たちが計画倒産を企てようとしている社長の令嬢である吉田日出子を、ペントハウスで預かったからだった。
 この吉田日出子、世間知らずで、食いしん坊で、かつ立派に女といっていい歳なのに子供のように性に対しては無垢でもある。
 メンチカツは嫌いで、肉とコロッケをバカバカ食べて、修たちの報酬分まで食べきる勢いで、クラシックを好む。
 そう、またクラシックである。貧しい彼らの対極にある象徴として使われるわけだが、まだ権威が教養が敢然と生きていた時代だったのだと見ながら思う。
  修たちは吉田日出子といっしょにステーキを食べるのに、フォークナイフが一組しかないペントハウスの住人である。包丁と一本の箸で肉を食べる修たちに、面白いものでお食べになるのね、と笑われる。
 計画倒産はその名の通り、奥にからくりがある。法の網をすり抜けて、マイナスを巧みに利用し、私腹を肥やしていく。そんな富あるものへの憤りや怒りを「傷だらけの天使」は笑いに包んだ不細工なまでの無器用な行動に変えて物語を進めていく。
 吉田日出子は彼らの生活の自由さに憧れていき、初めて見た「金曜10時うわさのチャンネル」にでてくるデストロイヤーがせんだみつおや、あのねのねをぶっ飛ばすコントを見て、あのお面が欲しいという。和田アキ子がゴッド姐ちゃんとしてでたバラエティ「うわさ」は「傷だらけの天使」の24時間前に放送されて、金曜と土曜の違いだけでない、こちらは段違いの高視聴率を得ていた。ゴッド姐ちゃんに叩かれているひとりだった歌手の湯原昌幸は、降板された俳優のあと水谷が決まる前に候補のひとりでもあったという話を市川が筆者に語ったことがある。

 お嬢さんのご所望に応えて買いにでたあと、デストロイヤーの白地に目と口と鼻を赤の縁取りで開けたマスクを三人はつける。屋上で「静かな湖畔の森の陰からもう起きちゃいかがとカッコが鳴く」をマスク姿で輪唱する。
 吉田日出子は学校で毎日この歌を朝に歌ったからで、あなたの学校では歌わなかったのと修に聞く。歌わなかった修は学校はどこかと聞かれて、赤羽少年院とを答える。
 修は吉田日出子が好みでない様子なのだが、屋上の風呂に入る彼女をのぞき見だけはしたい。もちろん亨も。
 屋上のタイル張りの床に無造作に置かれた煙突付きの風呂。この風呂はこの回に限らず、このドラマで要所ごとに忘れられないシーンを用意してくれる。ペントハウスとともにこの風呂の存在は大きい。いったい誰がここに置こうと提案したのか。
 ふたりはペントハウスの窓から争うようにのぞき見をしようとしていると、シャンプーがないと吉田がいう。
 水谷はシャンプーを手に風呂に近づき、吉田の無垢な芝居に翻弄されて、いつの間にか同じパンツいっちょうで釜のなかに入って、背中を流してやることになる。吉田の背中を流すタオルをよく見れば、亨の履いていたパンツである。亨はいつの間にか全裸になっていたわけだ。吉田は湯船に落ちた石鹸を拾おうとして、亨の「大物」をつかみ、お父さまと同じものがあるという。吉田は毎日父親と風呂に入っていたらしい。
 萩原も見せ場は多いものの、水谷ほどのわかりやすいオチやバカぶりができず、印象を残しにくい状況に次第になってきている。
 さらに水谷はここでギターを弾き、哀愁あふれる低音で、英語歌詞のまま「赤い河の谷間」を歌う。自由な生活を楽しむ吉田だが、やさしい父のいる家を思う。萩原は千葉にいるひとり息子の健太を思ってか小さな靴を見ている。水谷は親の顔を知らない子供である。あまり語られることはないがこの場面も「傷だらけの天使」が残した印象的な名場面のひとつだろう。
 その「赤い河の谷間」を萩原がひとりでギターで鳴らす場面もある。西部開拓時代のこの曲から連想するのは「シンデレラ」での「オーマイダーリン」。あちらも日本では「雪山賛歌」として知られていて、学校の音楽の授業で輪唱した人は多いはずだ。「シンデレラ」と同作は土屋統吾郎が監督。これは監督の趣味なのだろうか。演歌やクラシックとともに、こういう唱歌までも入っていたことが「傷だらけの天使」の世界を豊かにしている。
 大人たちの勝手な事情で吉田日出子といることが、修たちの立場をだんだん悪くしていく。修は吉田日出子といることを拒否する。亨は逆らい、吉田日出子とペントハウスをでていく。
 亨はそれなりにがんばるものの、ウナギ屋の前で腹を空かせる吉田を黙って見るしかなく、結局雨に濡れてペントハウスに帰っていく。
 吉田日出子は最初は清楚な服だったのに、自由な生活に憧れたせいか、いつの間にやら萩原の着ていた黒のだぼシャツにらくだ色の腹巻き、ズボンのベルトはヒモというスタイルになっていく。おかっぱ頭で年齢不詳な吉田日出子の姿はとても可愛いい。
 萩原は彼らのためにコロッケをたくさん買って待っている。しかしそんな態度をあからさまに見せない。眠ったふりをしてベッドで背を向けている。風呂にいくとき、コロッケをひとつふたつと持っていこうとする吉田に、まとめて持っていけ、まとめてという萩原は、これまでのやや印象薄い芝居に萩原印を付け加えて、視聴者の心をわしづかみにする。
 西村晃とともに刑事役をする船戸順がこの回でている。「自動車泥棒」「草原」以来三度目となる。西村の部下である設定。「草原」では触れられなかったが、綾部情報社に現れたとき、だされたコーヒーの砂糖壺を開けると、白ネズミがいるというちょっといま見てもゾッとなるようないたずらをされる。権力の犬ならぬ、身なりは白くて美しいがネズミはネズミということ。慇懃無礼に振る舞いながら彼を疎ましく思う綾部情報社、なかでも岸田森の意趣返しだろう。今回は砂糖壺に仕組みはしないが、岸田森と岸田今日子が話すところで、なぜか白ネズミがカゴのなかにいて、会話の流れを切って、白ネズミの目はなぜ赤いのでしょうか、と岸田森は問う。そして船戸が現れる。もちろん船戸あっての、白ネズミであるわけだが、「草原」を見てないものにはわからない。それとも尺の都合で切られた、あるいは撮影しなかったくだりでもあったのだろうか。
 物語は吉田日出子の叔父である男により、思わぬ方向に向かい、吉田日出子は天涯孤独の身となってしまう。
 叔父役の田口計は悪役として顔を知られ、また父の恋人としてでてくる悪女は元宝塚のトップ娘役だった加茂さくら。ふたりとも味のある芝居を見せているが、吉田日出子の前ではかなわない。
 なにしろ水谷と泡まみれで風呂に入り、デストロイヤーのお面をかぶり、だぼシャツに腹巻きで歩かれては。
 萩原、水谷、そしてだぼシャツ姿の吉田日出子は物語の終わりで、数寄屋橋の阪急に入り、買い物をする。
 これまでだったら欲しいものがあればなんだって買えた吉田日出子は、指をくわえてみていることしかできない。
 亨なら、吉田のためにちょっとくすねることもしてやるかもしれない。吉田の叔父のところで、一本いただけますかとお行儀良く煙草をもらったくせに、帰り際にはその目を盗んで、ごそりと持って帰った男である。亨は悪事に手を染めていつ落ちても不思議でない危うさを持っている。そうならないのは修の存在であることは間違いない。
 だから高級品が並ぶ店内でつい手をだしてしまうのは亨ではない。三十にもなる歳で、ももひきみたいなパンツを履いていた、いや、履かされていた吉田日出子が盗ってしまう。それは高級品の並ぶフロアでなく、亨が喜ぶ下着売り場でのこと。
 店の外でちょっとと声をかける店員は、吉田日出子の腹巻きから盗まれたパンティを見つける。店のなかに連れていかれる吉田を見送る萩原と水谷。助けようとする水谷に、オレたちに人を助ける力を持っているか、といって止める萩原。こういったセリフは刑事ドラマで刑事役の主役や時代劇での正義の味方が訳知り顔にさんざんいったかもしれない。しかし萩原の言葉は、間合い、表情、声の高低が重なり合い、ドラマを百億光年先の星から届く光のように輝かせる。
 この回はもう一方の個性派女優ともいえる緑魔子がでた「悪女」と同じ、ヒロインを見送る修と亨の構図があった。「悪女」も良質な回だった。しかしこの回を見てしまっては「悪女」が過去に思え、またその結末さえこの回と同様な展開だったかと記憶してしまうほど強烈な印象を残して終わる。